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中立とは?/ プロミス

[ 375] 中立地帯
[引用サイト]  http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/churitsu.html

国境線の線引きをめぐって折り合いがつかない国同士が、とりあえずお互いに領有権を主張している地域を中立地帯として、問題を棚上げすることがあります。このような中立地帯には、(1)双方が行政権を及ぼす、(2)双方の行政権が及ばず自治地域になる・・・などのパターンがあります。
また、強国が弱国の領土の一部を植民地にしたうえで、境界線から一定距離の弱国側の領土を「中立地帯」という名の緩衝地帯にして、弱国側の軍備や行政運営、居住に制限を加えるケースもあります。
1919年のアラビア半島の地図 アラビア半島の大半はヘジャズ王国領、エルハサはイギリス委任統治領ということになっています
一昔前の世界地図を見ると、アラビア半島の北側・サウジアラビアとイラクの国境に「中立地帯」と記されたアヤシイ菱形の一角がありました。これらの中立地帯はどうして生まれ、どうして消えたのでしょう?
アラビア半島の大部分は沙漠だが、もともと不毛な沙漠に国境線はなかった。最近まで地図を見てもアラビア半島の各国の国境は海岸付近しか決まっていなかった。定住者は海岸付近に住む漁民や農民だけで、沙漠の住民はわずかな草を求めて年中移動を続けている遊牧民だ。こういう場所で土地を押さえても、住民は年中入れ替わってしまうから支配できない。そのかわり××族はどこの王やスルタンに属するかということははっきりしていた。日本ではムラを単位とした地縁社会だから支配者はまずムラ=領地を押さえたが、遊牧民は部族を単位とした血縁社会だがら支配者は部族を押さえたということ。
それでもサウジと北側のイラク、クウェート、ヨルダンとの間には、砂漠の中でもきちんと国境線が引かれていたが、これは第一次世界大戦後、これら3ヵ国を支配したイギリスが、「国境線をはっきり決めないなんてありえない!」と強引に国境線画定を進めたため。しかし当時、サウジとイラクは犬猿の仲だったので最終的にどうしてもまとまらず、中立地帯が生まれた。
サウジアラビアとは「サウド家のアラビア」という意味。今でこそアラブの大国だが、王朝自体はそんなに古くない。サウジアラビア一帯はオスマン・トルコが支配していたが、1902年にイブン・サウドが20人の仲間とともにリアド城を奇襲した事件がそもそもの始まり。イブンらは1913年にペルシャ湾沿いのエルハサを占領し、第一次世界大戦ではイギリスの後ろ盾でオスマン・トルコの支配地を奪って勢力を拡大。そして1921年にネジド王国の独立を宣言し、24年から26年にかけてはアラビア半島西岸でオスマン・トルコから独立したばかりのへジャズ王国を征服して、イスラム教の聖地たるメッカを支配。こうして現在のサウジアラビアが建国された。
一方で、サウジアラビアによってメッカを追われたヘジャス王国のフセイン王は、かつてマホメッドを輩出したクライシュ族の流れをくむハーシム家の当主で、イブン・サウド王が戦乱で成り上がった王様なら、こちらはアラブ随一の名門の出。イギリスが第一次世界大戦後にオスマン・トルコ領だった地域を支配するに当たって、まず目をつけたのもハーシム家だった。第一次世界大戦が始まると、イギリスはハーシム家の当主・フセインと「イギリス軍に協力すればハーシム家の下でアラブ独立を認める」という、フセイン=マクマホン協定を結び、フセインは1916年にヘジャズ王国を建国した。そして1920年のセーブル条約ではヘジャズ王国はアラビア半島の大部分の領有を認められ、国連にも加盟したが、翌年イギリスは新興のネジド王国も承認。イギリスに二股をかけられたヘジャズ王国はあえなく滅亡してしまった。
イギリスの委任統治下でフセイン王の次男エミルはヨルダンの国王に、三男ファイサルはイラクの国王に迎えられている。ヨルダンの現国王はフセイン王の子孫。だからサウジアラビアとヨルダンは今でも何かと仲が悪い。
こうして1921年にファイサル王のイラクがオスマン・トルコから分離したが、イラクが直接「親の仇」ともいえるサウジと交渉して国境線がすんなり決まるわけがない。砂漠の真ん中とはいえ、所々に井戸や牧草地があって双方の遊牧民が使っていたし、下手に国境線を決めて行き来を制限したら遊牧民が反発して、よけい争いを招きかねない。特に国境一帯にはザファールという気性が荒いことで有名な部族もいた。
そこでイラクを代表して交渉に当たったイギリスが提案したのが双方の主張が対立する地域に7044平方kmの中立地帯を設定すること。中立地帯は土地を両国で分割せず、双方が平等に半分ずつの権利を持つというもので、翌年12月に調印された条約で、中立地帯には軍事基地を設けず、双方の遊牧民は自由に出入りできるとされた。
サウジアラビアとイラクが中立地帯を分割することで合意したのは1976年のこと。サウジの王家を「親の仇」と見ていたイラクの王家は、55年のクーデターですでに倒された後だし、サウジとクウェートの中立地帯(後述)と違って石油が出るわけでもなかったので、分割交渉はかなりスムーズに進み、81年12月には最終的な国境線が画定した。この時、周囲のデコボコした国境線も直線に引き直された。
その後、湾岸戦争でイラクはサウジと決めた国境画定を放棄すると言い出したが、サウジは相手にせず、イラクとの間で以前決めた条約を国連に登録。こうして国際的にも「アヤシイ菱形」の中立地帯は消滅したのでした。
1919年のアラビア半島の地図 イギリスはクウェートを通じてアルハサ(エルハサ)を支配するつもりだったが・・・
1921年のアラビア半島の地図 ネジド王国の拡張で混沌とするアラビア半島。いちおうアルハサの首都はクウェートということになっています
1920年代半ばのアラビア半島の地図 「エルクウェイト・エルハサ」という地域名だけ残っています。イラクとの国境はまだ昔のまま
かなり古い地図を見ると、「アヤシイ菱形の中立地帯」のほかにも、クウェートの南側にもう1つの中立地帯が存在していました。
大国の都合で領土が大幅に移動させられてしまった国といえば、ポーランドが有名です。第一次世界大戦で独立したポーランドは、第二次世界大戦後は東半分をソ連に取られ、代わりにドイツ領だった部分を獲得して、国が西側へ引越してしまい、400万人の国民が東から西へ移住しました。それと並んで、いやそれ以上に領土が大移動してしまったのがクウェート。第一次世界大戦前後に、ほとんど首都クウェートの町だけを残して南から北へ大移動しています。でも、当時のクウェートはイギリスの保護国で独立国ではなかったし、石油が出なかった頃はマイナーな存在だったので、ほとんど知られていなかったようですけどね。
現在のクウェートは、サバーハ家の首長が統治しているが、もともとサバーハ家はネジド地方(現在のサウジアラビアの内陸部)出身の商人で、旱魃のため17世紀後半に仲間たちと海岸へ移動を開始。最初はカタールの西のズバラ周辺に出たが、そこも水が不十分で良い土地ではなかったので、水を求めて北上を続け、たどり着いたのがクウェートだった。こうして18世紀前半に商人たちはクウェートに砦を築き、商人たちの互選でサバーハ家が首長に選ばれて代表者になった。当時クウェートは、オスマントルコの領土の最南端に位置する寒村だったが、商人が支配者だけあってたちまちペルシャ湾の貿易港として発展するようになり、サバーハ家はバスラ(現在のイラク南部)の総督からクウェートの支配者として公認された。これが現在のクウェート国のルーツ。
やがてオスマントルコは領土をもっと南へ広げて、アラビア半島のペルシャ湾岸(東アラビア)を支配しようとする。1871年にトルコ軍がクウェートからカタール対岸にかけてのアルハサ(またはエルハサ)地方へ出兵すると、クウェートもトルコ軍に協力してアルハサへ遠征軍を送り、サバーハ家はアルハサ地方の総督に任命された。もっとも当時のアルハサは、海賊海岸や休戦海岸(現在のアラブ首長国連邦)と同じく、各部族の土侯たちが群雄割拠している状態で、実際には要所にトルコ兵が駐屯したくらいで、クウェートの支配はほとんど及ばなかったが、名目的にはサバーハ家はアルハサの支配者ということになった。
やがてこの地に進出してきたのがイギリスだ。インドへの航路の安全を確保したいイギリスは、1892年に休戦海岸の首長たちと条約を結んで保護領にしたのに続き、ドイツがトルコからイラクへ至るバクダッド鉄道の敷設権を獲得(※)すると、その終点に予定されていたクウェートを押さえるべく、99年にはトルコの支配から脱したがっていたサバーハ家と条約を結んだ。こうして年間1万5000ルピーの補助金を与えることと引き換えに、第三国への領土割譲禁止や軍の駐屯権を得て、クウェートを保護領にした。
※ベルリン、ビサンチウム(イスタンブール)、バクダッドを結ぶ鉄道で、ドイツの「3B政策」の要だった。しかしトルコ〜イラク〜クウェートの鉄道はイギリスとの妥協で1914年に建設を放棄
クウェートはイギリスの保護国になりながら、サバーハ家はオスマントルコから総督に任命されるというややこしい状態になった。とりあえずイギリスは1913年にオスマントルコと条約を結んで、サバーハ家の支配地域を確定することにし、クウェートの町から半径80kmを領土として、さらに南側へ100kmの範囲(アルハサの北半分)がサバーハ家が徴税する権利を持つ地域、つまり支配領域ということになった(※)。
※ようするに、クウェートはもともとバスラ州の一地方に過ぎず、歴史的にイラクの領土の一部なのに、イギリス帝国主義の陰謀によってイラクから切り離された土地であり、クウェートをイラクが取り戻すのは当然のこと・・・というのが1990年にクウェートを武力併合しようとしたサダム・フセインの主張。1961年にクウェートが独立した時もイラクは猛烈に抗議したが、当時のカセム大統領が63年に暗殺されたため、ウヤムヤになっていた。
第一次世界大戦で、イギリスはアラブからトルコ勢力を一掃するため、アラビア半島の大半を自らの保護下に置いたヘジャス王国によって独立させ、イラクはイギリスの委任統治領として支配し、さらに保護国のクウェートをトルコから正式に独立させ、クウェートを通じてアルハサ地方も支配しようとした。しかしアルハサは新興のサウド家が1913年に占領し、ネジド王国(1932年以降はサウジアラビア)の建国を宣言していた(※)。
※サウド家はリヤドを中心としたネジド地方で王国を作っていたが、1891年に元家臣だったラシード家に追い出され、カタール周辺を流転した末、同郷出身のサバーハ家が支配するクウェートに亡命していたこともある。
その後もアラビア半島を征服し続けて勢いに乗るネジドは、アルハサ全域を支配すべく、1920年にベトウィンの部隊がクウェートに侵入して、首都から40kmの地点まで占領した。さすがにこの時はイギリス軍が装甲車や航空機を出動させたのでネジド軍は撤退したが、その後1922年12月に結ばれた国境協約(ウカイル協定)で、クウェートはアルハサの領有権を正式に放棄してそれまでの支配領域の3分の2を失い、さらにクウェートの南側の領土は首都から40kmまでに削られて、そこから南側の5180平方kmは中立地帯とすることになった。
当時クウェートはイギリスの保護国だったから、ウカイル協定を実際にまとめたのはイギリス。クウェートにとっては大敗北のような内容だが、イギリスとしてはアラビア半島の新たな覇権者たるネジド王国に恩を売るにはちょうど良かったのだ。そのかわりイギリスはイラクとの国境画定ではクウェートに味方して、翌23年にはサバーハ家の求めに応じて、1913年の条約で「首都から80km・・・」と決められながらも実際にはサバーハ家の支配が及んでいなかった北側の湿地帯58km分を正式にクウェート領にした。
これによってイラクは海への出口をほとんど塞がれることになり、イラクのファイサル王は反発したが、当時のイラクはイギリスの委任統治領だったし、ファイサル王はイギリスのお陰でイラクの国王に据えられた人物だったので抵抗することは出来ず、クウェートとイラクの国境線は1927年に再度確認された。イギリスとしては委任統治領で間もなく(1932年)独立してしまうイラクに海岸線を与えるより、保護国として末永く支配できるクウェートの手で確保しておきたかった。かくしてクウェートは「腹黒紳士」ことイギリスの策略によって、南側の支配地を失った代わりに、北側の支配地を固めてもらったのだった。
クウェート南側の中立地帯は、イラクとネジドの中立地帯と同様に、土地を両国で分割せず、双方が平等に半分ずつの権利を持つというもので、中立地帯には軍事基地を設けず、双方の遊牧民は自由に出入りできるとされた。
当時、中立地帯では石油は発見されていなかったし、定住者も存在せず、雨が降った時に遊牧民が家畜に草を食べさせにやって来る程度だった。だから両国とも中立地帯に対する行政は、放置しておけば良かった。ところがサウジアラビアとクウェートの中立地帯では、53年にアメリカの石油会社が陸上でワフラ油田を開発し、59年には日本のアラビア石油が沖合でカフジ油田を開発した。日本人やアメリカ人の技術者や、パレスチナ人やレバノン人、ヨルダン人、エジプト人、インド人、パキスタン人などの外国人労働者が住む国際村がいくつも誕生し、無人の沙漠だった中立地帯は人口が2万人に達した。
オイルマネーの利益は両国が半分ずつ分ければ良いが、困ったのが行政管理だ。両国が権利を持つ反面、両国が行政義務を果たすことになり、油田の周りには両国の警察や裁判所、郵便局、出入国管理事務所が建てられ、法律も両国のものがどちらも適用された。サウジの警官に見つかればサウジの法律で咎められ、クウェートの警官に見つかればクウェートの法律で咎められるという仕組み。これでは弊害が大きいので中立地帯は解消されることになり、65年に中立地帯は南北に分割されて、それぞれ両国に併合されることで合意、70年から実施に移された。ただし、石油など天然資源の利権は引き続き双方で平等に配分し、双方の国民は旧中立地帯内は自由に立ち入れることになった。
その後2000年になって、サウジアラビアとクウェートは旧中立地帯の石油利権区域についても両国で境界線を定めて分割した。「ま、金が絡む物事は、はっきりしといた方がいいんじゃないの?」と一般的にはそう思うのだが、思わぬとばっちりを受けたのが日本。中立地帯の海底油田は日本による自主開発油田として長年にわたり石油の安定供給に大きな役割を果たしてきたのだ。旧中立地帯からの石油は99年時点で輸入全体の5・4%を占めていたが、旧中立地帯の利権分割に伴って、サウジ側では2000年に、クウェート側でも2003年にアラビア石油は採掘権を失ってしまった。いやはや、中立地帯の消滅は他人事じゃないですね・・・。
ASTERがとらえた地球の造形 旧中立地帯の衛星写真。砂漠の中に産油施設と道路、パイプラインがあるだけ
アラビア半島ではアラブ首長国連邦(UAE)とオマーンとの間にも、いくつかの中立地帯が存在していました。しかしこれらの地域はあまりに小さいので、世界地図には載っていませんでした。
サウジアラビアとイラク、クウェートの中立地帯は、もともと時おり遊牧民が訪れる程度の砂漠地帯だったのに対して、アラブ首長国連邦とオマーンの中立地帯はその地域における重要な町や村で、マスフットは盆地のオアシスで、ハッタは高原のオアシス、ディバはアラビア海に面した港町だ。
現在は別々の国家になっているアラブ首長国連邦とオマーンだが、かつては大海洋帝国を築いたオマーンのスルタンの宗主下にあった。しかし19世紀にオマーン宮廷が弱体化すると、各地の部族が独立状態になって数多くの首長国が生まれ、19世紀後半に相次いでイギリスの保護領になった後も、戦国時代のような状態が続いて、首長国同士は勢力拡大を争っていた。このため各首長国やスルタン領の領地は流動的で、絶えず変動し続けていた。
イギリスはインドへの通路となるアラビア湾岸を他の列強に奪われたくなかったから保護領にしただけで、内政はおろか首長国同士の争いにも干渉せずに放置し続けていたが、戦後になって石油が発見されると、採掘権を確保するために各首長国やスルタン領の境界線を明確にすることが必要となった。そこで1950年代に各首長との部族や氏族のつながりや、交易関係をもとにして首長国の領域がはっきり決められ、その結果各首長国の領土は飛び地だらけの複雑なものになった。さらに重要な町ではそれぞれ別の首長やスルタンに忠誠を誓う複数の部族が混住していることもあって、どこの領地に帰属すべきか決めかねる場合もあった。こういう場所はとりあえず「中立地帯」ということにして境界線の画定は棚上げされた。
もっとも住民たちは政府ではなくそれぞれの部族のリーダーに従って暮らしていたわけで、同じオアシスに住んでいても、A首長国とつながりの深いA部族の人はA国の住民、B首長国とつながりの深いB部族の人はB国の住民となっても、特に不都合はなかった。いわば戦国時代の民衆は地元の殿様に従って暮らしていたわけで、その殿様が豊臣方についていようが、徳川方についていようが民衆には関係なかったようなものだろう。最終的な主権はどちらにしてもイギリスだった。
1970年代にマスカット・オマーンと呼ばれていたスルタン領はオマーン国として、トルーシャル・オマーン(休戦オマーン)と呼ばれていた各首長国はアラブ首長国連邦としてそれぞれ別々に独立すると、境界線があいまいな中立地帯は住民管理の面でも石油利権の確定の面でも厄介な存在になった。そこで80年代後半から中立地帯の分割が行われ、1999年に最終的な境界線が画定した。
しかし1つの町やオアシスが国境線で分断されてしまうと住民にとっては不便極まりない。そこでこれらの旧中立地帯では、出入国管理の面ではUAEに属している。UAE内にあるオマーン領の飛び地のマダとその中にあるUAE領の飛び地のナワ、さらにアブダビ首長国とオマーンに跨るブライミオアシス(アブダビ側の町はアルアイン)でも、同様のシステムになっていて、オマーン領も含めて地元では自由に行き来できる仕組み。ただしオマーン本土との間の通行では審査を受けなければならないことになっている(※)。
UAE内の首長国同士には、この他にもドバイ首長国とアブダビ首長国、シャルジャ首長国とフジャイラ首長国の中立地帯があるが、UAEの国内のことなのでヤヤコシイ問題はないようだ。
砂漠と外国経由のドバイ市内バス このHPの姉妹サイト。旧中立地帯の現地ルポ。国境線錯綜地帯を行くもあります
右図:ベルサイユ条約直後の地図。緑はベルギー領、赤はオランダ領、黄色がドイツ領。緑枠で赤の斜線の地域はドイツからベルギーに割譲。その北側にモレネの中立地帯
第一次世界大戦前のヨーロッパは、飛び地やら二重支配やらがやたらとゴチャゴチャあって、ヤヤコシイしキリがないし興味もないので、このHPでは取り上げないことにしてますが、かつて約100年間にわたって存在した中立地帯について、ちょこっとだけ取り上げます(笑)。
中立地帯が存在したのは、現在はベルギー領のモレネ(Moresnet)。かつてここはドイツとオランダ、後にオランダから独立したベルギーを加えた3カ国の中立地帯でした。
現在のベルギー一帯は中世以降、ハプスブルク家が支配し、スペインやオーストリアが統治していたが、フランス革命後の1795年にフランスが併合していた。ナポレオン失脚後の戦後処理を話し合った1814〜15年のウィーン会議でベルギーはオランダ領となることが決まったが、「会議は踊る、されど進まず」と評されたウィーン会議で、最後まで決められなかったのがオランダとドイツ(プロシア)の国境線。モレネには亜鉛鉱山があったため、両者が領有権を主張して譲らず、結局16年に西側のモレネ村はオランダ領、東側のPrモレネ(ニューモレネ)村はドイツ領となり、中間にあった鉱山一帯はどちらの国にも属さない中立地帯となった。1830年にはベルギーがオランダから独立したのに伴って、モレネはベルギーとドイツ(プロシア)の中立地帯になったが、オランダもモレネに対する権利を放棄しなかったので、形式的には3カ国の中立地帯だった。
中立地帯では関税が適用されなかったため物価が安く、アルコール製造が自由だったので、主にオランダ向けの酒密輸の拠点としても栄えた。また中立地帯の住民は1847年まで兵役に就かずに済んだので、兵役を嫌う人たちも流入した。1823年の取り決めでは、中立地帯の住民はオランダ(ベルギー)かプロシアかどちらの兵役に就くかを選択し、市役所で宣誓することになっていたが、プロシアの兵役期間の方が長かったため、プロシアの兵役に就く者がいなくなってしまう恐れがあるので実行されず、やがてベルギーで1年、プロシアで1年の合計2年間の兵役に就く案が検討されたが、これだと兄弟が別々の国の軍隊に所属する可能性があるということが問題になって断念。結局、1847年にベルギーが国外に住む国民(=モレネに住むベルギー人)にも兵役を課すように法律を改正し、1875年にはプロシアも同様の制度となったため、兵役に就かずに済むのは中立人だけになった。
中立地帯の行政は、プロシアとオランダ(後にベルギー)双方から派遣された委員の下で、市長と10人の評議員で構成される市役所が行ったが、実際には学校の建設や医療などの行政サービスは鉱山会社が行い、市役所も鉱山会社の建物内にあった。法律は中立地帯が設定される前の支配者だったフランスの法律が適用され、裁判所は住民がドイツで裁かれるかオランダ(ベルギー)で裁かれるかを選択できた。法定通貨もフランス・フランだったが、現実にはドイツやオランダ、ベルギーの通貨も使われ、1848年には独自のコインが発行された。
1885年に亜鉛鉱山が閉山するとモレネの重要性は失われ、さらに1900年以降はモレネの併合を狙ったプロシアは、電気や電話などをカットするなどさまざまな嫌がらせを始めた。モレネでは独自の郵便局を設置してオリジナル切手の販売を始めたり、エスペラント語の「国歌」を制定しようとするなどして独自の国づくり(というか、村おこし)に乗り出した。1903年にはフランスの法律に基づいてカジノを誘致する計画が持ち上がり、市長とベルギーは乗り気だったが、ドイツが「カジノを作るなら中立地帯を分割して占領する」と強硬に反対したため頓挫。第一次世界大戦が始まると、モレネはドイツ軍に占領され、その後のベルサイユ条約で、中立地帯を含むモレネ一帯はベルギー領に編入されることになり、1919年に中立地帯は消滅しました。
ジブラルタル北方の衛星写真 国境南側の空港一帯がイギリスの旧中立地帯、北側の空き地が多い一角がスペインの現中立地帯(google
ジブラルタルといえば、スペインの一角にあるイギリス植民地。ジブラルタル海峡に突き出たイギリス軍の要塞だが、最近では観光地として賑わっているようだ。ジブラルタルの大部分は巨大な石灰石の山で、スペイン本土とは長さ2・4km、幅800mの砂州で繋がっているが、この砂州の北半分、つまりスペイン領の部分が「中立地帯」となっている。この中立地帯は非武装エリアとも呼ばれ、スペイン軍は進入できない緩衝地帯だ。
ジブラルタルはスペイン継承戦争さなかの1704年にイギリスが占領し、1713年のユトレヒト条約でイギリス領と確定したが、当時は砂州全体が中立地帯で、その真ん中に国境線が引かれた。中立地帯となった砂州には英西両軍とも進入できないことにされたのだが、18世紀の間はスペインはジブラルタルを奪還しようと、たびたびフランスと手を組み海と陸(つまり砂州)からイギリス軍を攻撃していた。
そんな状況が一転したのが18世紀末から19世紀初頭にかけてのナポレオンのヨーロッパ征服だった。1810年にイギリスとスペインは反ナポレオンで同盟を結び、スペインの国王は中立地帯に面したスペイン軍の砦を、「ナポレオンの手に渡るかも知れないから」という理由で、ジブラルタルのイギリス軍の提督が取り壊すことを認めた。その頃、ジブラルタルでは黄熱病が流行して、1805年には住民の3分の1が倒れたほど。1815年にも再び流行したため、スペインはイギリス側の中立地帯に伝染病患者の隔離施設を建設することに同意したが、当時ジブラルタルの住民は大部分がイギリス軍の兵士だったわけで、「隔離施設」といっても、実際にはイギリス軍のキャンプ地のようなものだった。
1854年には黄熱病の流行はおさまり、隔離病棟は撤去されたが、病棟と一緒に設置されたイギリス軍の監視所や、「病気の兵士も訓練を怠らないように」ということで作られた射撃場はそのまま残され、結局イギリス側の中立地帯は「非武装」ではなくなってしまう。そして1908年にイギリスは「歩哨の仕事は大変だから合理化が必要」という口実で、国境線に有刺鉄線のフェンスを設置して、イギリス側の中立地帯をジブラルタルの他の地区と一緒に統合してしまう。スペイン政府は抗議をしたが、当時は飛ぶ鳥落とす勢いの大英帝国による「既成事実」の前にはなす術がなく、かくしてスペイン側の中立地帯だけが残ったという次第。
イギリス側の旧中立地帯には、イギリス植民地恒例の競馬場が作られて春と秋にダービーなどをやっていたが、ナチスドイツの台頭でヨーロッパの雲行きが怪しくなってくると、イギリスはスペインに対して、砂州に両国が共同使用する空港を作ろうと提案。ドイツと仲が良かったフランコ総統が拒否すると、「じゃあ、イギリス側だけで作りますわ」と、競馬場を壊して空港を建設。こうしてイギリス側の旧中立地帯は空軍基地になってしまった。う〜ん、やっぱ植民地経営にかけては腹黒紳士のイギリス、とことん抜け目がないですね。
世界で最も幅が狭い国境線は、いったいどこでしょう?北朝鮮とロシア、中国とアフガニスタンなんかが思いつきますが、中国とポルトガル(マカオ)の方が断然狭かったですね。幅1kmくらいしか接していなかったんだから。でも、マカオは1999年に中国へ返還されたので、国境ではなくなってしまいました。
飛び地マニアの方だったら、「スペインとモロッコ!」なんて思いつく人がいるかも知れません。スペイン本土からジブラルタル海峡を挟んだ飛び地・セウタとメリリャでモロッコに接しているというわけですが、現地の地図をよ〜く見てみると、セウタやメリリャの周りには、スペインにもモロッコにも属さない中立地帯が設定してあるので、微妙なところで接していません。セウタの中立地帯は無人で住む人はいないが、メリリャの中立地帯には村があるようだ。
じゃあ、スペインとモロッコはまったく国境を接していないかというと、実はペニョン・デ・ヴェレス・デ・ラ・ゴメラ
アンコール・ワットといえば、カンボジアが誇るクメール文明の象徴。ところが数年前に、タイの人気女優が「アンコール・ワットはタイのものだ」と発言したとかで、プノンペンで暴動が起こり、タイ大使館が焼き討ちされる事件に発展した(女優の発言はデマだったらしい)。
なぜまたアンコール・ワットが「タイのもの」なのか。かつてここに首都を構えたクメール王国は、現在のカンボジアからタイ、ラオスに跨る広大な地域を支配したが、やがてタイ人が建てたアユタヤ王朝に攻められ、1431年にクメール王国は首都をプノンペンへ移転。アンコール・ワットは放棄されて、タイの支配下に入った。その後カンボジアは1867年にフランス植民地になり、アンコール・ワット一帯は1907年にフランスがタイから獲得し、名実共にカンボジアの領土に「復帰」したのは、カンボジアが独立した1953年のこと。つまりタイ人にとっては、アンコール・ワットは600年近くタイの領土だったのに、フランス帝国主義に奪われ、カンボジア領になってからまだ60年も経っていない・・・という理屈にもなる。
一方、同じくフランス植民地だったラオス。タイ人とラオス人は民族的には同じ「広義のタイ族」で、タイ語とラオ語は方言程度の違い。ラオスの首都・ビエンチャンでは市民はもっぱらタイのテレビ番組を観ているし、タイ東北部のイサーン人はラオ語を話している。フランスが進出してきた当時、ラオスにはタイの宗主下でビエンチャン王国、ルアンババーン王国、チャンバサック王国などが分立していたが、1893年にフランスは軍艦をバンコクに派遣して領土の割譲を要求。こうして結ばれたシャム仏講和条約で、ラオスはフランス植民地になった。つまりタイ人にとって、ラオスはフランスの「砲艦外交で奪われた領土」ということにもなる。
この時の条約では、タイとフランスの国境はメコン川だったが、メコン川の中州や島はすべてフランス領とされたほか、タイ領として残ったメコン川西岸も幅25kmが中立地帯になった。中立地帯はタイの領土だが、非武装地帯とされて、タイは軍事施設の建設が禁止された。
フランスがメコン川にこだわったのは、中国への進出ルートとして利用しようとしたためだった。ベトナムとカンボジアを植民地にしたフランスにとって、内陸のメコン川両岸も抑えれば、コーチシナから雲南省まで「フランスの川」として支配できるだろうと考えたのだ。
しかし、メコン川上流の西岸(現在のミャンマー・シャン州)はイギリスが征服してしまい、肝心なメコン川の河運も、カンボジアとラオスの境界一帯に横幅が世界一とも言われる巨大な滝(コーンパペーン)があるため、中国まで船でいけないことがわかった。こうしてフランスは川を抑えることより、土地を抑えた方が得策だと、1904年にタイと新たな条約を結んで、メコン西岸のうち北部のルアンババーン周辺と南部のチャンバサックを獲得した代わりに、タイに非武装を命じた中立地帯は廃止した。
しかしタイにとって、ルアンババーンとチャンバサックはラオス3王国のうち2つの中心地。1932年の立憲革命を経て、38年に首相に就任したピブンは「大タイ民族主義」を掲げ、翌39年に国名をそれまでのシャム王国からタイ王国へ改称し、領土回復に乗り出した。
なぜシャムをタイに変えると領土回復につながるのかというと、現在では「タイ人」といえば一般にタイ国民のことを指すが、もともとタイ人とは、ラオスのラオ族やミャンマーのシャン族(大タイ族)なども含んだタイ語系の言葉を話す民族の総称のこと。そのうちシャム族(小タイ族)の王朝が建てた国がシャム王国だった。つまりシャムからタイへ改称することで、「シャム族の王国」から「タイ民族全体の王国」へ脱皮することになり、フランスに奪われたラオスや、イギリスに奪われたシャン州は、「シャム族の土地ではないが、タイ民族全体の土地」なので、タイの一部だと改めて主張することができるという発想だ(※)。
※同時にタイ国内に住むシャム族以外の民族や華僑に対しても「「タイ人」への同化政策が強化されたほか、チェンマイで650年近く続いたランナータイ王国(シャムの属国)も取り潰され、中央集権化が進められた。
そして第二次世界大戦が勃発し、フランス本国がドイツに占領されると、タイはさっそく領土奪還の実力行使に乗り出した。40年に日本の調停でメコン川西岸を取り戻し、1907年にフランスに奪われたカンボジアのバッタンバン州とシェムリアップ州も併合したが、フランスの敗戦と日本の威光で奪い返した領土に過ぎず、いずれも46年にフランスへ返還して、そのままラオスとカンボジアの領土になった。
タイ周辺の地図(1942年) 日本軍と手を結んだタイが、カンボジアやラオスの一部を奪還。現在のタイ・カンボジア国境は「アラン」
日本の敗戦でピブンも失脚し、「領土回復」の望みが消えたタイは国名をシャム王国に戻したが、やがて復権したビブン首相によって49年に再びタイ王国に変えられて、現在に至っています。
関東州と中立地帯(1921年) ピンクの部分が日本租借地の関東州。その周りのオレンジ色の部分は中立地帯
山東半島の地図(1921年) 赤枠で囲まれた部分が威海衛(イギリス租借)、緑枠内が膠州湾(ドイツ租借地)。その周りのオレンジ色の部分は中立地帯
という日本の植民地だったが、当時の地図を見るとその北側に「中立地帯」と表示された一角があった。これはロシアが関東州を租借した時に清朝との条約で設定したもので、中立地帯はあくまで中国領で、行政や司法なども中国側の管轄だが、中国の軍隊はロシア側の同意がなければここに入れない。また中立地帯は第三国への供与や鉱山開発、道路建設などの権利を与えることを禁止された。日露戦争で日本がロシアから関東州の租借権を引き継いだ時、中立地帯もそのまま引き継いだというわけ。中国側は中立地帯とは言わず隙地界線(緩衝ライン)と呼んでいたが、こちらの表現の方が実情に合っていそうだ。
かつて中国が列強に貸し与えた租借地では、他に 膠州湾(ドイツ)と威海衛(イギリス)にも中立地帯が存在したが、条約の内容はそれぞれ違っていた。膠州湾はドイツ軍は中立地帯を自由に通行でき、中国が中立地帯で行う行政措置はドイツ側の同意が必要とされた。威海衛では中立地帯には中英両軍が駐屯することができ、イギリスには道路、水道、病院などの建設を行う権利が与えられていた。
康徳三(1936)年度、満洲国農村実態調査報告書にある統計資料について 江夏由樹氏の論文。満州国時代の蓋平県の農民の収入や税負担などのデータもあります

 

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