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押し付けがましとは?/ プロミス

[ 502] これがおそらく、「『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさ」 - FemTumYum
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20071106/1194317695

コメント欄で「通りすがり」さんからの御指摘いただいたように、「映画製作上映の試み」への評価を一切せずに特定の発言を取り上げたのは確かに失礼であり、その点についてはお詫びを申し上げます。
今回の試みは意味があるものだと思っています。それが成功して多くの観客を集めたこともすばらしいと思いますし、今後も再上映の機会があったり、あるいはGLOWに限らず他の大学でさまざまな自己表象の試みがうまれたりしてほしい、とも思います。
また、以下でも繰り返すことですが、以下のエントリは「映画」についてではなく、「企画」についてでもなく、その時のトークであったと報告された特定の発言についての批判です。わたくしは映画自体は見られませんでしたので、それについての判断をすることはできません。
最後に、本エントリのタイトルですが、「これがおそらく、『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさ」というのは、わたくしのエントリ自体を差しています。エントリにおいて言及したakaboshiさんのブログにおいて、この映画を『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさがなくて良いと評価されていましたので、そこから援用して「わたくしのこのエントリは、まさに、プロパガンダ臭ただよう押し付けがましいエントリになるのだろうなあ」と思ってつけたのが、このタイトルです。エントリの文中で複数回にわたって「わたくし押し付けがましいですね」という自己言及を入れたことでその意図は伝わるだろうと思ったのですが、そうでもなかったようです。不明瞭な表現であったことについて、お詫びを申し上げます。(この点については、どうも消えてしまったような気がする今朝のコメントでも書いたのですが、それが消えてしまったわけなので、ここであらためて書いておきます。)
「『おネエMANS』とかで、同性愛者に対して派手なイメージを持っている人が多いけれど、実際はフツーで日常に暮らしているんだということを伝えたかったんです。だから、映画の中で日常的な場面をいっぱい撮りました。日本では90年代ゲイブームというのがあったのですが、それはメディアの中だけでした。日本は欧米に比べて大幅に立ち遅れています。まるでアメリカの70年代の頃のように、まだまだカミングアウトどころか自分のセクシュアリティーを認めることすら出来なくて悩む人がたくさんいるんです。だから、この映画のレベルは、非常に『古い』ものなんです。」
学生さん(?なのですよね?)に絡むのもどうかと思うし、上映の案内をいただきながら実際には見に行けなかった負い目もあったりするのだけれども(だから当然映画それ自体については何も言いようがないのだけれども<でも「ゲイとビアン」なんですもの。またここでいちいち言うのって疲れる、と思ってちょっと萎えました)、色々なレベルで上の発言は何か微妙。
「日本では90年代ゲイブームというのがあったのですが、それはメディアの中だけでした。」って、これはかなり検証や批判が必要な気がする。わたくしは自分自身が当時コミュニティにも何らかのアクティビズムにも参加してはいなかったのだけれど、それにしたって。
メディアの中でゲイブームがあったのは確かだけれども(「美青年」ゲイ映画のブームとか)、同時にそれこそアカーの府中青年の家の裁判があり(それはメディアでも報じられましたが)、ダイクマーチや何かがあり(「コミュニティ」から断絶していたわたくしでも噂として聞いてはいた)、アカデミアではゲイブームというよりはクィア理論のブームがあってかなり興味深い論文が執筆されたり翻訳されたりしはじめており、そして「メディア」を通じてではあっても確実に多くの人に届いた「女を愛する女たちの物語」のような出版物や、それを通じて可能になる出会いがあった。
それらを全てまとめて「メディアの中だけ」と言ってしまうのは、やはり違うと思う。GLOWの若い学生さんたちにおそらく何の悪気もないのだろうと思うだけに、もう少し気をつけて歴史を見てほしい、とも思う。いろいろな事の準備が90年代にははじまっており(それが直接的にもたらした結果の評価はさまざまだろうけれども)、そしてそのような事が90年代に可能になる前、70年代80年代にも、確実にさまざまな運動があったし文化活動があった。当たり前だけれども、その事にもっと注意を払って欲しい。学生さんなんだし<押し付けがましいです、はい。
それから、あらまあまたその話なのねと退屈されることを承知で、言います。「同性愛者に対して派手なイメージを持っている人が多いけれど、実際はフツーで日常に暮らしているんだ」は、あああそれはねわたくしはどうかと思いますあまり望ましくない用語選択だと思いますというよりおそらく考え方としてどうよそれ<本当に押し付けがましい
派手なのはフツーじゃないのかしらとか日常じゃないのかしらとか派手な同性愛者は「実際」にはいないのかしらとか、もうそのあたりの話は良いのかと思っていましたが、やはり「可視化」という主題は恐るべしと言うのか、以前のチャットでmakikoさんが仰っていたとおり、制度化と可視化(あ、顕在化か)の方向性が少しずつ強まっているように見える現在だからこそ、可視化のされ方(何がどのように見えるようになるのか、その時に何が見えなくなる/見なくても良いことになるのか)に、注意を払わなくてはいけないなあ、と。
>「日本では90年代ゲイブームというのがあったのですが、それはメディアの中だけでした。」って、これはかなり検証や批判が必要な気がする。なるほど確かに。わたしは90年代ゲイブームのころにはすでに学生ではなかったけれども、「コミュニティ」からは断絶していて、ブームの担い手さんたちとのつながりもなかったため、これらのブームは事後的に知ったのでした。学生さんたちは、そのブームと自分たちの生活とのあいだに隔たりを感じていて、それを「メディアの中だけ」だったと表現しているのかもしれませんね。しかし、大学にセクシュアルマイノリティのサークルが結成されだしたのは、90年代ゲイブームの流れに乗ってのことだったはずなんですがねぇ。わたしの出身大学に当事者サークルができたのは、わたしが卒業した年でしたorz
>papyrusさんそうですね、そういう「断絶」というのはありそう。というより、その部分の断絶を埋めていくのはむしろ教員の側の仕事でもありますよね>人を批判する前に自分でどうにかしろよって事だわよねと後からちょっと反省サークルのお話は考えていませんでしたが、確かにそうですねえ。GLOWはいつごろに成立しているんだろう。そこを見てもらうと意外に「90年代ブーム」とのつながりが実感として納得してもらえるのかもしれません。
tummygirlさん、はじめまして。こちらの記事をいろいろ拝読すると、クィア学会ですれ違っているようですね。それはさておき、tummygirlさんが引用されたような文脈での可視化の主張には、私も疑問があります。表象としてLGBT(実は私はこの用語が嫌いなんですが…)が非LGBTと違っていてもあたりまえなんじゃないでしょうか。違っていて当たり前というところから、クィア学会の開会の辞で述べられた多様性云々という議論がでてくるのだとおもいます。まあその辺は、これからまたオープンな議論をしていかなければいけないのではないかとおもいますけど。
はじめまして。GLOWの成立時期、正確なところはわからないんですが、90年代前半の「ブーム」の頃にはあったと思います。わたしは確か1993年の秋頃に一度ミーティングに行ったことがあります(早稲田の学生ではなかったんですが)。そのあたりの歴史、サークル内部でも継承されていないのかしら。ちなみに(最初はマスメディア主導だったとはいえ)コミュニティが盛り上がったという意味での「ゲイ・ブーム」と、アカデミックなゲイ・スタディーズというかクィア理論の盛り上がりがあった頃とは、時期的にはちょっとずれてたと記憶しています。前者が90年代前半〜中盤、後者は後半あたりだったかな。『女を愛する女たちの物語』はそれよりもっと前です。わたしがあの本を読んだのは1991年頃(ゲイ・ブームの始まりくらいの頃)ですが、出版されたのはそれよりもさらに以前だったと記憶しています。
GLOWは少なくとも90年代後半までは交流中心のサークルで、リブ(解放運動)との関わりは薄かったと思います。世紀末前後に早稲田大学で起きた混乱を生き残り大学公認を勝ち取れたのも、運動と距離を置いていた点と無関係ではないと考えています
司会をした小林です。上のおや痔さんから教えてもらい、来ました。「ゲイとレズビアン」というカテゴリーのチョイスは、片手落ちというのはわかっていますし、この映画でも、はっきりと男女だとわかる人たちしか出していません。トランスの方にも出演を依頼しましたが、断られました。この映画は傷をさらけ出すものというより、若くて、普通に男女に見えて、カップルになれるほど自己肯定感、容姿に優れている人が、「人前に出せる程度の苦しみ」を表現したものに過ぎません。同性愛者は普通に生活している、というより、普通になれるものならなりたい、なろうとしている話だと思っていただければ幸いです。学生として、勉強不足ではあり、先人の努力に配慮していない発言だったかと思いますが、GLOWにすら入れない「うぶ」な人たちが多いのです。これは事実なんです。こうした世界に馴染んだ人に向けては作っていないので、その辺りをご理解いただけたらと思います。
お初です。金田です。映画を見にいけなくて残念でした。>GLOWにすら入れない「うぶ」な人たちが多いのです。これは事実なんです。これはどうなんだろう。僕が聞き取りを行うために通ったころも思ったものなんだけど、GLOWに限らず、ゲイ・サークルというものは基本的に敷居が高いものではないかなぁ。「GLOWにすら」というのは、GLOWの敷居が低いことを前提として仰っていると思うんだけど、学生サークルというのはそれほど敷居が低いものではないんちゃうんかな。サークルの内部にいると見えなくなってしまうもんだけど、サークルというのには「色」があるし、特有の「ノリ」もある。映画については見ていないので論評できないけど、立て看板なんかは「早稲田の」タテカンとしてはよくできてると思う。けれど、昔ながらの言葉を使えば「リブ」っぽい雰囲気は漂っているよね(それが悪いと言いたいわけではない)。オープンゲイ」や「クローゼットゲイ」という言葉もそれほど一般的なわけではないですし。事実として「GLOWには」入らないゲイやレズビアンの子たちはたくさんいると思うのだけれど、それはその他にゲイの世間とつながる回路を持っているからだと思う。彼/女たちは、そこは自らの選択で世間とつながる道を模索しているんであって、そこを「GLOWにすら」と言ってしまうのは、ちょっとだけ(GLOWというサークルの姿勢として)不安を感じるな。もちろん今回の映画上映みたいな企画は、大変素晴らしいことだと思うので、今後も継続していって欲しいな、と心から思います。
突然コメントの嵐!になって心底びっくり。なのですけれども。>闇太郎さんはじめまして。うーん、リアルで存じ上げている方でしょうか?表象としてのLGBTが表象としての非LGBTと同じでも構わないとは思うのですが(それがそういう一つの表象であって他の表象も存在するよ、ということであれば)、LGBTだって非LGBTと同じなんだよ!という表象はやっぱり困るかな、と。その表象が誰に向けられるものとして意図されていたとしても。まあ、でも仰るように、ここら辺はおそらくずーーっと形を変えて議論をしていくことになるのでしょうね。>mimi246さんはじめまして。でしたか。すみません、いつも拝読していて、はじめましてという感じがせず、ちょっと驚きました。GLOWの設立の時期について、ありがとうございます。90年代の「ゲイ・ブーム(複数系のSがあるべきなのかもしれません。ゲイ・ブームズ。それはそれで変かも)」については、確かにそれぞれの前後関係をきちんと書くべきでした。こちらの御指摘もありがとうございます。私は自分が『女を愛する』が出た時にすぐに買って読んだのだとずっと思い込んでいたのですが、時期的にそんなはずがないということに最近気づきました。いったいいつどこで自分があの本を買ったのか全く思い出せないでいます<老化。>o-tsukaさん、おや痔さんノン・ポリサークルなんですねえ。ただ、リブ路線ではないゲイサークルであっても「ゲイ・ブーム」によって可能になるというのか、その土壌が用意されるというのか、そういうことはあるかも、と思っていたのですが。>小林さん、using_pleasureさんわざわざお越しいただきまして、どうもありがとうございます。まず、金田さん同様、わたくしも映画上映の企画自体は応援しています。同時に、一つの短編映画であらゆる「セクマイ(って誰)」を網羅するべきだと言っているわけでも、ありません。ので、そこはまず御確認ください。で、金田さんの仰っている「GLOWにすら入れない『うぶ』な人たち」と言っちゃうというのがちょっとだけ不安、というのは、わたくしも同感ですが、この点はもう金田さんが仰っているので、おいておくとして。「ゲイとびあん」というのは、たとえばバイだのトランスだのは今回はのストーリーに出てこないのでタイトルに入れなかったからです、というのは、一つの主張として理解はできます。ただ、たとえば製作側にも入ってないのかな?とか、GLOW自体にはいないのかな?とか(実際にGLOWにはバイの人もトランスの人もいるよ、と聞いてはいますけれど)、ちょっと思わせるタイトルであることも事実だろうなあ、とも思います。映像作品としてのタイトルということであれば、「ゲイとびあんのキャンパスライフ」というタイトル以外にもいくらでも可能なはずですし(映像作品のタイトルとしては一見して扱う主題がわかる必要は必ずしもないわけなので)、逆にGLOWというサークルのある種の「自己主張」というか「発表」ということなのであってもやはり、用語の好き嫌いはあるにせよ、「セクマイ」とか「LGBTQ」とか「レインボー」とかその手の言葉も使えるわけで、そこであえて「ゲイとびあんのキャンパスライフ」というタイトルをつけたわけですから、それは「出演者がそういう人で」「そういう人のストーリーなので」というのは、少し説得力に欠けるとは思います。もちろん、そういう理由ではなく、このタイトルが、たとえば芸術的なとか政治的なとか宣伝上のとか、そういう理由で「もっとものぞましいのだ」という決定をなさったのであったとしたら、それはまたそれですけれども。(つまり、このタイトルが絶対にダメと言ってるのではありません。なんでこのタイトルなんだろう?とわたくしが思った、それに対して小林さんがお答え下さった理由に、わたくしはあんまり説得されない、というだけの話です)それから、「こうした世界に馴染んだ人に向けて作っていない」としても、やっぱり「同性愛者は実際は普通なんです」というのは、集団としてあまり望ましい自己表象のあり方ではないのではないかとわたくしは思います。「実際は」ってその時の「実際」を構成しているのは具体的には誰?とか、「普通」って具体的にはどういうこと?とか、そのあたりで問題になりそうな議論というのはご存知の通りですけれど、やっぱりその「ご存知の通り」の手続きをちゃんと踏んで考えるべきだと、わたくしは思います。さらに、「普通になれるものならなりたい、なろうとしている」も、そういう人もいますよというのは勿論全くかまわないのですけれども、メッセージとして「同性愛者だって普通になりたいし、なろうとしていますよ」という形になってしまうと(上で言及したエントリでのトークが正確な記録であるとすると、わたくしにはそういうメッセージであるように読めます)、そのような形で、しかも「普通」というのが何をさすのかが限りなく曖昧な状態で、「同性愛者の表象」を行うということに、わたくしはあまり賛成できません。そういう表象をしてはいけない、と言っているのではありませんけれども、わたくし自身はそのような表象には批判的だと言うことです。繰り返しますけれども、わたくしは映画自体は拝見しそびれたので、これは映画に対する批判ではありません。さらに、たとえば「普通」でないようなゲイやレズビアンであるとか、バイセクシュアルやトランスであるとかが、映画に出ていなかったとしても、それだけで映画を批判するつもりもありません。今後も上映の機会がまたあれば良いなと思っていますし、GLOWで、あるいは別のサークルで、今後も同様の企画がたてられ、成長していったら、すばらしいだろうと思います。
あと、ごめんなさい、揚げ足とりに近づくかと思って書かなかったけれど、やっぱり大事なことだと思うので。>トランスの方にも出演を依頼しましたが、断られました。>この映画は傷をさらけ出すものというより、>若くて、普通に男女に見えて、>カップルになれるほど自己肯定感、容姿に優れている人が、>「人前に出せる程度の苦しみ」を表現したものに過ぎません。まず、「普通ですよ」と言わないことと「傷をさらけ出す」ことは必ずしも同じではありません。「傷をさらけ出す」という用語に肯定的な意味を込めているのか否定的な意味を込めているのか、ちょっとわかりませんが。それと関連して、本当にこれは「作文」の問題ですけれども、いただいたコメントの文脈だと、トランス=「普通に男女に」見えない人 =「傷」をかくすかさらけ出すかするしかない人 (普通ではなくて「傷」を負っている人)という等式が見え隠れすると思います。小林さんの意図を問題にしているのではありませんけれども、 (おそらく意図的ではないのだろうとは思います)わたくしにはちょっと引っかかるものがあります。それからついでということで。「カップルになれるほど自己肯定感、容姿に優れている人」って。GLOWどんだけカップル主義なんだ。と、わたくしなら思います。ポリとか、逆に単身とかであれば、自己肯定感とか容姿とかに劣るの?
なんか大学の教員が、匿名ブログで作品も見ずに学生の自主製作作品に意見をいうのって学生がかわいそうだと思う。それもわざわざakaboshiさんのブログにまで、トラックバックを飛ばして。それだったら、顔の見えるところで、相手を傷つけずにきちんと伝えてあげて下さい。あなたの方が知識も、経験も、権力もあるのだから。これを見た学生さんたちが傷ついてそうで心配です。こんなやり方だと、伝えたいことすら伝わらないかもしれませんよ。
>通りすがりさんええと、何度も書いていますが、映画そのものは拝見していませんから、当然それについての批判も意見も言えません。最初のエントリはakaboshiさんのところでのトーク報告への批判的感想(ですからakaboshiさんのところにトラバを飛ばすのは礼儀だろうと思いました)、その後のコメントは小林さんの下さったコメントへのレスポンスです。相手が学生さんだからこそ、コメントへのレスポンスはしつこいかと思いつつ手を抜かずにしようと思ったのですけれども、長くなりすぎたでしょうか。あらためて繰り返します。わたくしは映画そのものを見てはいませんから、映画そのものを批判するつもりはありません。むしろ、今回の試みは意味のあるものであり、それが成功して多くの観客を集めたのはすばらしいと思っていますし、今後もあらたな上映の機会があったり、あるいはGLOWでまたは他の大学サークルで同様の自己表象の試みがどんどん膨らんでいったりして欲しいと、応援しています。そのことと、トークあるいはコメントにおける一つの自己表象の形に賛成できない、ということとは、別です。
tummygirlさん、こんにちは。おそらく、私達は、リアルではお会いしていないかとおもいますが今後ともよろしくお願いします。実は、「表象」に関するさまざまな問題は、これまであまり詳細に考えたことがなくて、いま自分なりにいろいろ考えているところです。混乱したままの書き込みがtummygirlさんを当惑させてしまったとしたらお詫び致します。さて、LGBTという用語なり概念に対して私が感じる違和感というのは、その概念があまりにphysical(物理的・肉体的)に過ぎて、これではLGBTがなにか実体的なものになってしまうのではないかということです。その点、クィア学会の開会の辞および清水さんの発言のなかでは、ジェンダーやセクシュアリティーは「制度」だということが明確に指摘されていたようにおもいますが(この見解、私は賛成です)、この考え方を延長していけば、究極的にはLGBTも制度であり、実体のない改変可能なものということになるのではないでしょうか。ですから、現在存在している差異を表現するにはLGBTという用語はたしかに便利ですし有効だとおもいますが、そればかり強調すると、差異を批判する側も差異にしばられてしまいそうな気がして、そのあたりが、私がこの用語に対して感じる違和感なのです(言葉足らずではありましたが、その辺のことは、クィア学会のシンポジウムでも質問というかたちで発言させていただきました)。このあたり、その差異が表層的なものなのか、実体的もしくは本質的なものなのかということともからむ議論(さらには、その実体もしくは本質は言語化されうるのかともからむ議論)だとおもいますので、もっとつきつめていくべきだとはおもいますが…。ところで、この記事で言及されている映画作品は別にして(残念ながら私もそれを拝見していません)、「フツー」なり「日常」という概念もくしは用語選択で気になるのは、この概念が、「フツー」や「日常」が実体的な考え方をしながら「非・フツー」や「非・日常」を差別化・排除しようとする傾向にあることを棚上げしながら、「フツー化」や「日常化」さらには「可視化」を急いでいるようにおもわれるところです。冒頭で引用されているakaboshiさんの記事に、ある種の「押しつけがましさ」があるように感じられる原因は、その辺にあるのではないでしょうか。この記事を読んで、ふとそんな風におもいましたので、最近このブログに来だしただけの新米ですが、ちょっと発言させていただきました。ちなみに、この記事、論点および発言者が多く、問題がかなり複雑になっていますが、私の発言に関していえば、多くの発言のなかで言及されている映画作品およびGLOWの活動とはほとんど無関係です。
レスポンスありがとうございます。大体が揚げ足とりなように思えます。清水さんが作品を見ずにこのコメントを読んで、その言葉尻を捉えて批判されても、あまり意味がないというか、意見されてることは大体同意しますが、ここで言うことなのか?というものが多く、別にGLOWに関わらず、あらゆる活動でいわれていることへの批判なように思われます。また、ご自分で答えが見つかっていないような話を批判としてぶつけられても、困ります。(普通にLGBTを表象する話など)映画を見ていないのに、タイトルについてあれこれ言われるのも心外です。それと著しくモチベーションを下げられたことは事実です。匿名ブログとは言え、ご自身の発言力など考えてから発言なさってはいかがでしょうか?それとも、これは匿名だから何を言ってもいい、ことでしょうか?
丁寧なコメントをありがとうございます。これは想像ですが、ブログの筆者さんにとっては人格を傷つける批判ではなく、その表象について批判した、学問の世界においてそれは当然なものであると考えているんだろうなぁという印象を受けました。それでも、受け手がどう感じるのか、感じたのかをもう少し考えて下さい。学生さんにとってみたら、自分たちの努力をぶった切りにされていると感じてしまったということです。題が「これがおそらく、「『プロパガンダ臭』漂う押し付けがましさ」」なんです。この言い切りだけでも、きついですよ。それも、実際に見ていなくて、どういう雰囲気でその言葉があったのか、知らないまま二次情報でここまでの言い切り方をするのはやはりきついと思います。少なくとも私は、このようなやり方はきつすぎると思いました。何度も言って申し訳ないのですが、言い方、やり方をもう少し考えて下さい。大学で、このようなイベントをすること自体は評価されているなら、まずはちゃんと評価するということを伝えてあげて下さい。コメント欄でのやり取りでやっと評価のコメントがでてきました。そして、学生さんの成長を願うならば、このようなやり方でなく、顔をみて話すなり、ご自分の大学で上映会とご自分で学生さんとトークをするなりそんなやり方を考えてみて下さい。私は批判をするな、と言っているわけではありません。明らかに、知識も経験も権力もあるのだから、今後どうしたら学生さんにとってもプラスの働きかけになるのか、今度もし作るときに、じゃぁどういう視点をプラスしていけばいいのか、気づけるようなアドバイスとして提案をしてもらえるとありがたいです。今回の記事は、これだけ批判されるなら、やらない方がましだったと思わせかねない記事だと思います。匿名といいながら、このコメントを書いているほとんどの人は、リアルのあなたを知っています。クィア学会もあったのですから。あなたは、自分が思っている以上に学生にとって権力を持った存在に写っています。(あなたの自覚は違うかも知れませんが)ぜひ、あなたの知識と経験を学生のサポートとして活かして頂きたいと勝手ながらお願いする次第です。通りすがりに失礼しました。
揚げ足取り、というのは、上位にいる他者が言うことです。揚げ足を取られた、というのは、恥ずかしいことなのですよ?
他者は言い過ぎですね、第三者か。どちらにしろ、足を揚げてしまった以上、転ばされても仕方が無いと思います。学生だから生暖かくなんて、わたしが当事者ならぶち切れるところですね
コメント一端アップしたのですが、編集する前のバージョンを間違えてあげてしまっていたことに気がついたので(恥)、置き換えました。失礼いたしました。
清水さんの最新のレスポンスに対して応答します。1.「え?どうなの?(普通、という概念に関する部分)」という違和感と「それは違うよ(歴史認識と歴史表象について)」という指摘普通という概念についてですが、「普通のLG学生の日常生活を撮りたい」ということはコンセプトでしたが、だからといって、なぜ、普通ではないものを排除していると即断されたのでしょうか?私は、そこに違和感を感じます。映画では、オネエ言葉を話すような、ステレオタイプのゲイの学生も出していますし、別に「普通」にくくれない人を排除しようとも思っていません。排中律の単純なロジックで批判されても困ります。そして、このAだと言ったことに対して、非Aはどうなの?という批判は、以下引用ですが>>トランス=「普通に男女に」見えない人 =「傷」をかくすかさらけ出すかするしかない人 (普通ではなくて「傷」を負っている人)という等式が見え隠れすると思いますカップルになれるほど自己肯定感、容姿に優れている人」って。GLOWどんだけカップル主義なんだ。と、わたくしなら思います。ポリとか、逆に単身とかであれば、自己肯定感とか容姿とかに劣るの?』 引用終了でも繰り返し出てきますが、トランス=傷を持った人GLOWはカップル主義である、なんていつ言いましたか?私が聞いたトランスの人は傷を持っていて、人前では言えないというわけであって、別にトランス全般には言及していません。歴史認識のずれに関しては、私は、ゲイの可視化が進んでいるように見えるけれども、そうではない、ということを言いたかったわけで、先人たちの努力をけなしているわけではありません。もし、そう取ってしまったのなら謝ります。2.タイトルに関しては、セクマイを包括するようなタイトルは考えていませんでしたし、それは有効だとも思わなかったのでつけませんでした。セクマイというとイメージが漠然としすぎますし、、ゲイとトランスを一緒にしない、という狙いもありました。繰り返し言いますが、トランスを排除しているわけではありません。結果的に排除してしまっているとしても、ゲイアイデンティティを持っている人からしてみれば、セクマイの中の違いを強調すべきだと考えました。学生だから甘くしてくれ、なんて言っていません。むしろ、「学生なんだしこんなこと言ってもねー」という上からの態度に憤りを覚えます。言葉で現実を全て語ることはできません。私が「セクマイは普通の日常生活を生きている」と言ったとして、そうではない人を排除していると考えてしまうのはどうかと思います。応援していると言っても「今私が言ったことに注意して、次はやりなさいよ」という風に言っているように思えます。現場にいなかったから、という理由で批判するつもりはありませんが、わかったような気になって、単純なロジックで批判してやろうという態度そのものに疑問を感じます。根本的に愛を感じません。
あわわすいません。ネットとか分からないので・・・でも一度ブログ上で名前出されてるか、いいのかと。消した方がいいんでしょうか?分かりません。
>o-tsuka さんありがとうございます。学生さんはmixi中心の人も多いようだからブログ慣れしていらっしゃらないのかなと思って最初は流していましたが、そろそろ気になり始めていたところでした。>小林さんということで、今回は別にかまいません。今後気をつけていただければ結構ですので、お気になさいませんよう。さて。困りましたね。どうかもう一度冷静にエントリおよびコメントを読み直していただけますか?とりあえず、どうもコメントを拝読している限りにおいては、小林さんがわかっていらっしゃるのかどうかこちらで自信が持てない点を、少ししつこく説明してみます。もしすべて理解なさっていたらごめんなさい。今後毎回同じようなレスポンスができるかどうかわかりませんが、とりあえず上から行きます。>普通という概念についてですが、「普通のLG学生の日常生活を撮りたい」ということはコンセプトでしたが、だからといって、なぜ、普通ではないものを排除していると即断されたのでしょうか?ええと、「普通でないものを排除している」とまでは書いていませんよ。御確認ください。ただ、確かに「普通(だと御自分が考えるあり方)」をある種規範化する方向の発想だなとは思いました(「規範」というのは社会的な決まりや約束事だと思ってください。必ずしも法的な拘束力があるわけではありませんが、それに従わなければさまざまな形での社会的/文化的制裁が与えられる可能性があり、その意味での強制力/拘束力を持った約束事です)。以下の部分です。>>同性愛者に対して派手なイメージを持っている人が多いけれど、実際はフツーで日常に暮らしているんだということを伝えたかった (上エントリでも引用した記録より)勿論この記録がある程度正確なものであることが前提ですけれども、このような表現をした場合、「実際は」という時の「実際は」ってどの「実際」のことかな(派手な人は実際の同性愛者じゃないのかな)とか、「派手」というのは「フツー」ではないのかな(その時の「派手」とか「フツー」というのは誰が決めるのかな)とか、そういうことは、とりわけLGBTに関わる活動においては、どうしても問題になってきます。それは理屈上の話でもありますが、そもそもLGBTの運動なりそれにかかわる近年の学問領域なりにおいて、それは重要なテーマの一つであり、しばしば重要な社会的/政治的な含意を持っているからでもあります。「普通の学生の日常生活を撮りたい」というコンセプトがあったときに、それが当然のごとくヘテロの学生を意味してしまうという状態(これをヘテロ規範と言います)に対して、「普通=ヘテロというのはおかしいでしょ」と異議を唱える。LGBTのムーブメントというなり、クィアムーブメントなりというのは、形は色々ありますが、そういうことをやってきている部分があるわけです(これは日本でも当然同じことです)。それに対して「LGだって普通だよ」と主張するのは勿論一つの方向性です。ただし、その時に、「LGだって(ヘテロの普通の人と基本的に同じだから)普通だよ」という主張になってしまうと、じゃあやっぱり「普通」ってヘテロのことなのかな?ヘテロじゃなければ普通じゃないのかな?という話になってしまう。さらに進めば、そういう「普通」ってどんだけ大事なことなんだ?誰が決めるんだ?ということにも、なる。さらに、「普通なLGもいるし、そういう人は別にいいと思う。でも好きこのんで<普通じゃない>生き方をしているLG(ここにしばしばトランスジェンダー系は含まれるのですが)はみとめなくていい」という議論も、それこそ「普通に」繰り返されてきたものです。「あんたたちは普通じゃない。だから、権利が制限されても/暴力をふるわれても/嘲笑されても(ここには色々入りますが)、仕方ないじゃないか」という理屈に対抗してきたLGBTのムーブメントにおいて、その同じ理屈に自分たちが加担してしまうことへの危機感は、従って、常に存在していたわけです。そこから、「自分たち的にはこれで普通。ヘテロとは結構いろいろ違うけれど、それで普通じゃないと一方的に言われても、そんなの知らない」とか、「別に普通じゃなくてもいいけど、だからってそういう色々な目にあうことが<仕方ない>わけではない」という議論が出てきます(わたくし個人は、「クィア」というのも基本的にこの論法を採用する態度だと思っています)。もちろんそういう議論を採用せず、「やっぱり<普通>でいることが大事なんだ」という議論を展開してきた人々も、たくさんいます。けれどもいずれにせよ、「普通」という言葉は使った人の意図にかかわらずそれなりに議論を引き起こす言葉であり、従って、とりわけLGBTの学生団体をある程度代表してお話をするのであれば(このトークはそういうことですよね?違うのかしら)、それなりに注意を払った方が良い言葉でもあります。ですから、>別に「普通」にくくれない人を排除しようとも思っていません。という小林さんの意図には、わたくしは全く疑問をはさんではいませんよね?そういう意図の問題とは別に、「実際はフツー」という表現を簡単に使ってしまうことの危険性というのは存在しているわけです。それをすべて承知の上で「あえて」使うのですよ、ということであれば、それはそれでそう主張なされば良いことだと思います。わたくしはその戦略を必ずしも支持できないだろうと思いますが、ぜひ御主張はうかがってみたいとも思います。それから、まだ誤解なさっているようですけれども、わたくしは「映画ではなくて」、映画について語った小林さんの御発言について話をしています。そういう意味では、映画撮影の意図が「本当はどうなのか」ということは、直接的には関係がありません。その意図を「どう語ったのか」ということを(最初のエントリでは)問題にしたわけです。その二つの違いをおわかりいただけますか?それから。>トランス=傷を持った人?GLOWはカップル主義である、?なんていつ言いましたか??私が聞いたトランスの人は傷を持っていて、人前では言えないというわけであって、別にトランス全般には言及していません。(小林さん)という点についてですけれども、等式とその前後の文をきちんと読んでくださいね。もともとの小林さんのコメントは、次のとおりです。>トランスの方にも出演を依頼しましたが、断られました。?この映画は傷をさらけ出すものというより、?若くて、普通に男女に見えて、カップルになれるほど自己肯定感、容姿に優れている人が、「人前に出せる程度の苦しみ」を表現したものに過ぎません。(小林さん)この書き方だと(ですから「作文の問題ですが」とお断りしてコメントをしています)、「トランスの方」が出演を断ったのは「傷をさらけ出す」ことになるのを嫌った(あるいはそれが出来なかった)からであり、出演できるのはそれほど「傷をさらけ出さないですむ」方たち、すなわち「普通に(また出てきましたよね)男女に見えて」「カップルになれるほど自己肯定感、容姿に優れている」ために、「人前に出せる程度」の傷しか負わずにすんだ方たちだった、という風に読めます。だから、わたくしは以下のようにコメントしましたよね。>本当にこれは「作文」の問題ですけれども、?いただいたコメントの文脈だと、?トランス=「普通に男女に」見えない人? =「傷」をかくすかさらけ出すかするしかない人? (普通ではなくて「傷」を負っている人)?という等式が見え隠れすると思います。?小林さんの意図を問題にしているのではありませんけれども、? (おそらく意図的ではないのだろうとは思います)?わたくしにはちょっと引っかかるものがあります。(tummygirl)つまり、「この(小林さんの)コメントの文脈だと」「作文」の問題として、トランスの人が出演を断ったのは、普通に男女に見えないことで、「普通」よりはるかに深い度合いで「傷」を負っている(したがってその傷は単に「人前に出す」ことは出来ず、「さらけ出す」か、見せるのを拒否するかしかない)、というような等式に見え隠れしますよ、と。ただし、それは小林さんの意図なさったことではないだろうから、だとしたらなおさら作文の形としてどうなのだろうか、と書いたわけです。「カップル主義」については、もちろん小林さんはおっしゃっていません。わたくしが、それってカップル主義的な発想じゃないの?と疑問を呈しただけです。どうしてそう感じられるのか、説明の必要がありますか?「カップルになれるほど自己肯定感、容姿に優れている」という表現は、いくら「カップルではない人について明言はしていない」とはいっても、どうしようもなく「カップルになれる<ほどの>自己肯定感、容姿に優れなかった人」というネガを呼び出してしまいますよ。歴史認識については、わたくしは最初のエントリで触れた後は、特に何も申し上げていません。「努力をけなしている」などとは最初から一言も書いていませんし、感じもしませんでした。「知らないのだろうなあ、こういうことが伝わらないのは困ったことだなあ」と思って書いたエントリであって「知っていてけなしている」などとはみじんも考えませんでしたので、御気遣いいただきませんように。>タイトルに関しては、セクマイを包括するようなタイトルは考えていませんでしたし、それは有効だとも思わなかったのでつけませんでした。セクマイというとイメージが漠然としすぎますし、ゲイとトランスを一緒にしない、という狙いもありました。了解いたしました。最初のコメントでのお返事を拝読して「出演者がゲイとレズビアンだけだったので」そのようなタイトルをつけました、ということなのかなと思いましたので(それが違っていたらごめんなさい)、それに対する応答として、その理由には説得力が感じられませんと申し上げました。「包括的なタイトルが有効ではない」というのがどのような理由によるのかは、いつかぜひ伺ってみたいなと思いますが、そのような理由で決定なさったというのであれば、それはそれで理解できます。レスポンスありがとうございます。>学生だから甘くしてくれ、なんて言っていません。?むしろ、「学生なんだしこんなこと言ってもねー」という?上からの態度に憤りを覚えます。ええと、「こんなこと言ってもねー」という態度は失礼だと思うので採用しません、と申し上げたのですけれども?同じことをo-tsuka さんもおっしゃっています。ただちょっとね、「批判されたのでモチベーションが下がった」と苦情を言うのは、「甘くしてくれ」とほとんど変わらないのではないかと思います。>言葉で現実を全て語ることはできません。私が「セクマイは普通の日常生活を生きている」と言ったとして、そうではない人を排除していると考えてしまうのはどうかと思います。既に上で書いたことですが、「普通」という言葉はそれ自体が価値中立的な使用をされにくい言葉ですし、LGBT とのかかわりにおいては、小林さんの言葉でいえば「排除」、あるいはより正確に言えば「普通でない」と規定された存在が不利益や不都合を被ることの正当化を、しばしば結果としてもたらしてきた言葉でもあります。そのような歴史に対しては気を配ってくださるといいな、ということです。言葉で現実をすべて語ることはできません、という点については、あらゆるレベルにおいて、賛成いたします。けれども、この文脈で小林さんがいったいどうしてこの点を主張なさりたいのかは、全くわたくしにはわかりませんので、ご説明いただければと思います。>応援していると言っても?「今私が言ったことに注意して、次はやりなさいよ」?という風に言っているように思えます。ええと、批判ですからもちろん、「次はこういうことに注意して欲しいな」と思っているわけです。どうでも良いと思ったら批判もコメントもしませんよね?ただ、わたくしの言ったことに注意していただけるかどうかは、もちろん、全くわたくしのコントロールの及ぶ範囲ではありませんし、コントロールしようとも思いません(そんな大変な仕事、引き受けられませんしね。w)>現場にいなかったから、という理由で批判するつもりはありませんが、わかったような気になって、単純なロジックで批判してやろうという態度そのものに疑問を感じます。ええと、何を「わかったような気になって」いるとお思いなのかがちょっとわかりませんが、わたくしが今の時点ではっきりと「わからないな」と自分でわかっているのは、小林さんがどのくらい「単純なロジック」をおわかりなのだろうか、どのくらいわたくしの書いたことをわかっていらっしゃるのだろうか、というところです。そのために今回のコメントは必要以上に詳細になりました。その点、冗長でしたらご容赦ください。>根本的に愛を感じません。どういう誘われ方をしているのかよくわからなくなりましたが(w。小林さんへの愛?GLOWへの愛?映画への愛?個人的に存じ上げているわけでもなく、しかもわたくしの理解できる限りでは特にこれまでのところ共感も同意も成立していない方に、現在のところ、愛は感じません。個人的につながりがあるわけでもなく、それほど詳しく知っているわけでもない団体にも、いきなり愛は感じません。もちろん、観てもいない映画に愛を感じるわけもありません。でもね、仕事の合間ぬってこれ書くの結構時間かかっていますし、結構しわ寄せが他のところに(たとえば睡眠時間とかに)くるんです。その程度の愛はあるのですが、微弱すぎて感じてはいただけないかもしれませんね。
うわ引用部改行で文字化けしました(おそらく改行部がはてなマークになっちゃってる)。直している時間がないのでこのままで当面失礼いたします。恥恥。
GLOWメンバーの東大1年の杉本です。結局匿名でぎゃーぎゃー騒ぐことにどんな意味があるかわかりませんが。論争したり、あなたのいう「70年代、80年代のさまざまな活動や文化活動」について私たちに教えたいなら、堂々と私たちのところに来てやってくださればいいのに、と思います。このエントリーは私たちの映画の批判ではなく、小林さんの言葉づかいの批判にしかなっておらず、それなのに見てもいない映画をプロバガンダだの胡散臭いだの言う権利は、あなたにはないと思いますよ。たしかに、小林さんの言葉の使い方には問題もあると思います。私は小林さんがどんな形でこのインタビューを受けたかの経緯も知りませんし、あえて映画紹介の中でゲイブームの事を言及する必要があったかや、日本は欧米に遅れてる、と言い切ってしまうことに多少疑問も感じないでもありません。(キリスト教の教条をベースにした欧米の同性愛への差別意識と、日本人の差別意識を簡単には比べられないと思うし、欧米人でもクローゼットはいっぱいいるしね。)んで、小林さんの意見が全てのGLOWメンバーの声かって言ったら否ですよ。インタビューにメンバー全員行って、全員の声を聞いてもらえるわけじゃありませんし。でも、やっぱり日本では同性愛者ってのは、なんか聞いたことはあるけど、そんな人がまわりにはいないと思ってる人が多いでしょうし、(その点同性愛糾弾も根強いけど、多くのテレビドラマにゲイキャラクターが出てくるアメリカなんかとは違いますよね、結局そのゲイの大半が「マッチョ」で「おしゃれ」で、寝まくってるっていうステレオタイプにはまってしまってはいるんですが。)別にそこらへんにいるんだよ、っていうのを伝えたいっていう意図はメンバーの中に共通していると私は思っています。だからこそ、多くのメンバーが、顔さらして、映画に出たり、ビラ配ったり、いろいろ映画のためにしました。あえて、「普通」って言葉にそこまでこだわるかな〜とあなたのエントリーを見てて思いました。だって、私たち「普通」に、「普通」って使うでしょ?小林さんは、ステレオタイプにはまった仮屋崎省吾や、ピーコさんみたいな「オカマ」だってもちろんいるんだけど、そうじゃないゲイだって、レズビアンだっているんだよ、ってことを伝えたかっただけでしょう。教授様ですから、クィア理論については私たちのウン十倍もご存知なんでしょうから、それを言葉遊びのためじゃなくて、もっと生産的なことに使っていただきたいです。
>杉本さんとりあえず、エントリとコメントとをきちんと読んでから意見を書く、というのが、基本です。こちらが繰り返し「映画についての批判ではありませんよ」と指摘しているのに対して、何ら新しい観点を出すでもなくひたすら「見てもいない映画を批判するな」と繰り返すのは、いくら学部の1年生でも余りにも怠慢です。(そもそもこの映画について、プロパガンダだのうさんくさいだの、わたくしがいつ言いましたか?)同様に、「普通」という言葉がLGBTにかかわる時に持つ意味合いについて、「普通に使っただけ」だから別にいいじゃないかと単純には言えない理由について、上のコメントでわたくしはかなりしつこく説明したと思います。それに対して反論があるなら反論、疑問があるなら疑問を、寄せてください。子供ではないのですから、「だって普通に使うでしょ?」では、まったく生産的な議論にはなりません。それから、わたくしは職業としては教員ですけれども、仕事でもないところに出かけ、学ぼうという意識も学ぶための姿勢もない人を相手に、何かを教えたいとは思いません(小林さんのことではありませんし、GLOWのメンバー全員のことでもありませんよ)。「平場で話をする」事は(意味がわかりますか?「対等な関係で」と言い換えてもいいです)、議論に際して最低限の礼儀と知性とが不必要だということではありません。批判も反論ももちろん結構ですけれども、その二点を持ち合わせていらっしゃらないのであれば、ブログ上でのコメントは控えていただきたいと思います。
??わたくしが今朝あげたコメントが消えちゃっているようなのですが、わたくしのところから見えないだけでしょうか。元原稿を保存しているわけではありませんし、この流れだとコメントを追ってもちょっとわかりにくいし、困りました。
>闇太郎さん議論がこじれているわけではないように思います(議論が成立していないとは思いますが)。御提案には感謝いたしますが、そもそもの批判の対象が映画ではない以上、映画再上映の機会にこの議論をすることに特に意味があるとは思えませんし、むしろせっかくの機会が勿体ない気がいたします。(さらに言えば、簡単に次の週末にというわけにもいかず、時間調整が非常に難しいだろうという、散文的な理由もあります)
闇太郎さんの申し出は非常に頷くところがあるのですが、一言だけ書かせてください。杉本さんへ>このエントリーは私たちの映画の批判ではなく、小林さんの言葉>づかいの批判にしかなっておらず、それなのに見てもいない映画>をプロバガンダだの胡散臭いだの言う権利は、あなたにはないと>思いますよ。誤読もいいかげんにしなさい。きちんとtummygirlさんの文章を読めていれば、このようなコメントは出てこないはずです。いったいtummygirlさんが、いつ・どこの箇所で「映画をプロバガンダだの胡散臭いだの」述べたというのでしょう。また、tummygirlさんは決して言葉じりをとらえてあげつらっているのではなく、LGBTサークルとしての(そしてその代表としての)姿勢や態度を問うているのだと思います。私の理解としても、GLOWはもともとノンポリサークルだったという認識です。とはいえ、ノンポリならノンポリとして「政治的」な立場に立ちうると思うのですが、今回のコメントなどを見ると、単なるノンポリサークルに止まらず、LGBTの政治についてより「積極的」(←「」については強調)な姿勢を示そうとしているように思います。そしてそうであるならば、そこではtmmygirlさんのような批判を受けることもあるでしょう。あと、>論争したり、あなたのいう「70年代、80年代のさまざまな活動や>文化活動」について私たちに教えたいなら、堂々と私たちのとこ>ろに来てやってくださればいいのに、と思います。なんですか、この物言いは。無知は恥じるべきものであって、開き直っていいものではありません。また、コメントを書き込む前には推敲を行って、その破綻した日本語をなんとかしてから書き込みなさい。
tummygirlさん はじめまして。 using_pleasureさん関連からおじゃましました。 学会設立大会後の懇親会の際、煙草を吸いに建物の外に出ようとしたら、ちょうどtummygirlさんがおいでになって、「自動ドアのところに立ってないと中に戻れなくなっちゃう」と教えていただいた、図体のでかい者です。 その時、tummygirlさんは書籍の搬出のお手伝いをなさっておいでのようでありました。 なんて、かの日はとてもお忙しかったでしょうし、またおつかれでありましたでしょうから、こんなことをわたしが申し上げても覚えておられないとも思います(笑)。 わたしは当日の上映会にも訪れておらず、予告編を観ただけですし、トーク司会である小林さんの発言も、ここで目にしただけですから、これについて語ることは禁欲的であろうと思います。GLOWの歴史についてのコメントがいくつかありましたので、すでにメンバーではないけれども、長年活動をなんとなく眺めていた者として、その歴史について発言してみようと思いました。 たしかに90年代にはゲイブームってメディア上でありましたよね、懐かしい。 一方で、ご指摘されていたようなアカーの府中青年の家裁判はこのブームが始まる前に起こったものですし、当該サークルのGLOWも91年に設立されました(蛇足的でありますが、わたしは92年からこのサークルに参加していました)。メディアのブームとほぼ同時期かそれより少し前に設立されたサークルではありますが、このサークルについてはメディアのブームとはほとんど関係がないと思います。 というのは、設立時のエピソードとして、設立メンバーとなった数人は、たまたま2丁目でばったり遭って「きみも早稲田なんだ。欧米では大学にレズビアン/ゲイサークルがあるのに日本にはないよね。んじゃ作ろう」みたいなものを聞かされた記憶があるからです。 設立メンバーの中には、かのILGAの若人部門(だと思うのですが)togetherの構成員もいたりと、設立当初はそれなりにリブ「的」な色彩を帯びた団体であったのだと思います。自分が参加し始めた92年当時も、定例会と勉強会がそれぞれ月に1回ずつ持たれ、勉強会で扱われたテーマにはやはりリブ「的」な要素を帯びたものがありましたので。また当時のGLOWの参加者からは、実際にアクティヴィストも登場いたしましたし。ただ実際にリブのような主張を団体として行っていたかというと、それに接した記憶がないのでありますが(リブってどのリブ?みたいなお話はとりあえずここではしないことにします(笑))。 ただこのリブ「的」な色彩は発足後2〜3年ほどすると徐々に薄まり、もちろんメンバーの中にはリブ「的」な関心を持った人たちもいたかとは思いますが、それについて全体でディスカッションするという機会は、ほとんど持たれることなく数年が経過していったように記憶しています(リブ色が濃いとか薄いとかを、良いとか悪いとかって評価するつもりは毛頭ありません。念のため。ただ)。using_pleasureさんのいう「ノン・ポリ」とはおそらくこの時期のGLOWをさしているのだと思います(この時期といってもGLOW全体の歴史から考えればそのほとんどだといえますが(笑))。 ところがここ2〜3年の間に、一部か全部か分かりませんが、メンバーの間でゲイリブという言葉が流通し始めたように思います(これは映画本編や上映会での小林さんの発言とは直接結びついた印象ではありません。それ以外のところでメンバーの発言に接したときに得たものです)。 現状の問題を嗅ぎ取り、それを解決していこうとする姿勢、それ自体は素晴らしいものだと思いますが、一方で、二十歳前後の学生たちがゲイリブという言葉を用いたり、ゲイリブという言葉を用いながら問題として析出している事柄や、進んでいこうとする方向を見て、疑問をぬぐい去ることができません。大学にある図書館にでも行って、端末でも叩けば、セクシュアリティ関係の文献や社会運動の文献は結構な分量が表示されるはずです。少しばかりの手間と努力をかければ、これらを学び取ることができるはずなのに、どうもその形跡を感じ取ることがほとんどできなかったりするのです(わたしの感受性が低いだけかもしれませんが)。なぜゲイ・スタディーズからクィア・スタディーズへと別の視点が提示されるようになったのか、なんてことは少し調べれば分かると思うのですが。そしてその上で「ゲイリブ」と名乗るならば、それなりの正当性が主張されるべきだと思うのですが、どうもそういう思考の軌跡が感じられなかったりするのです(これまたわたしの感受性が低いだけかもしれませんが)。 ただ、このような傾向は別にゲイリブを標榜する二十歳前後の学生に限ったことではないような気がします。なんちゃって非常勤講師でもある自分が、教員の立場のときに学生と接していると、これは学生全般においてよく見られる傾向のような気がしたりします。すなわち、新たに学び取ろうとはせず、とりあえず手許にあるこれまでの知識を適当に組み合わせて、(そして場合によってはちょっとネットで調べたことをくっつけて、)なんとか乗り切ってしまおうとする、手抜きなやり方がそれです。まあ自分が学生時代にそんなに積極的に学んできたのかと聞かれると、苦笑いをせざるをえなかったりもしますが。 これをゲイリブを標榜する二十歳前後の学生にもう一度差し戻すと、当事者であることにあぐらをかいているように、わたしの目には映ります(あ、歴史以外のことについても言及しちゃいましたね。わざと脱線したのですが(笑))。 ちなみにo-tsukaさんが言及された大学公認についてですが、早稲田大学の公認サークルになるためには、たしか最低2つの条件をクリアしなくてはならず、公認を求める声はわたしが参加した当初からありました。公認の主なメリットは、ミーティングを行う会場の手配が容易だからとされていたような記憶があります。 その条件とは、1)大学にメンバーの名前と学籍番号を20名以上そろえて名簿として提出すること2)常勤教員の顧問をつけることであったように思います。 わたしが参加した92年当時、多くのメンバーは大学に名前と学籍番号を届け出ることに警戒していたのですが、たしか5、6年くらい前に何度目かの公認をとろうという話が起こり、また名簿がネックになるかと思いきや、ほとんど警戒心が表明されることなく公認がとれるだけの人数(20名以上)の名前と学籍番号がそろったように思います。時代は変わったんだなあ、なんて思いました(笑)。ちなみに顧問についてはわたし自身の下賎な考えから、当時学部長を務めていた自分の指導教官に頼みました。学部長が顧問なら、大学も文句つけないだろうと。なので初代の顧問はわたしの大学院時の指導教官です。その後顧問は他の教官へと移りましたが。 そして早稲田大学における公認サークルの価値についてですが、上記2つの条件を充たせばほとんどの場合公認がとれるでしょうから、それほど大きな価値はなかったりするのです。いわゆる軟派なテニスサークルだとかなんとか、そういった団体も容易に条件をそろえれば公認を受けることができるといったあんばいなのです(わたしは大学の学部4年間、そんな軟派な公認テニスサークルにもいちおう籍をおいていましたので)。特に大学から予算がもらえるというわけではなく、学生会館の部屋を借りることができるといった特典と、その他いくつかの特典が得られる程度くらいだと思います。 ですので、o-tsukaさんは「世紀末前後に早稲田大学で起きた混乱を生き残り大学公認を勝ち取れた」とおっしゃっていましたが、実際にはそのようなドラマティックな展開はなかったといってさしつかえないと思います。 末尾ですが、tummygirlさんがなさっている、ここでの議論「のようなもの」への誠実な対応にはまことに頭が下がる思いです。わたしはこういったものにひどくうんざりさせられてきましたし、よほど腹に据えかねたときか、体力と精神力に余裕があるときくらいしか対応する気がおきません。それではいけないのだと思いながらも、ひどく疲労し、疲弊させられるのです。 初めての書き込みであるのに、長々と失礼いたしました。
同じく、GLOWのけいたと申します。 何かポジティブに勘違いされてるようなので言っておきますが、僕も正直相当モチベーションが下がりました。来年、早稲田祭で何かイベントを開くモチベーションです。 僕たちの今回のメイン作品は映画であって、それを見てもいないのに(6回も上映した上、トークショー直後にも上映しました。)、プロパガンダ臭とまでいいきってしまう教授/学生という権力関係の中でのその暴力ぶり。そしてこのブログ記事の方がよっぽどおしつけがましい。(それこそあなたのタイトルも批判しまくりたいのですが。)そして、その映画の文脈上で語られた小林さんの発言を自分が批判したいがために自分の文脈に都合よく解釈して批判するというのは、言葉の暴力でしかないと思います。(小林さんは謙虚でしたが、僕は許せません。)小林さんに謝罪してください。 まず、GLOWの説明をしたいと思います。現在のGLOWの活動目的は、学内における性的マイノリティが安全にいられる居場所づくりとピアサポートです。リブ(解放運動)を中心には置いていません。今回の早稲田祭の企画も、存在自体(あること)が目的でみんなで共通して目指す活動がないため、1年に1回くらいはみんなで共有して何か「したい」というのが今回の映画上映の第一の動機です。その上で、性的多数のひとには僕たちの存在を身近な存在なんだと知ってほしい、当事者で悩んでいるひとには勇気を与えられたらと思い、製作しました。(当事者でわりと自分に肯定的なひと向けに作ったわけではありません。ですので、あなたが意図するようには全体が進んでいないのは当然です。)今年の東京プライドパレードで学生フロートを出展したRainbow Collegeという性的マイノリティの大学生のために活動しているネットワークがありますが(僕も所属していますが)、そこと混同されていないことを願います。 「GLOWという大きい団体を背負ってるから批判する」というのはまさに押し付けだと思います。僕たちは今の日本の状況ではまだまだ学内での安全な居場所づくりが必要だと考え、そこに重点を置いています。それは、入部する学生の大半がカミングアウトなどしておらず、とりあえず居場所がほしい、友達がほしいと願っているような学生だからです。なので、サークルとして、必ずしもリブについて勉強したりする必要はないと考えていますし、無理だと思っています。教授が学生に意見を言うというのは、学生がその分野を勉強したいときに指導するのであって、そうかどうかわからないものにずけずけ言うのはまさに「おしつけがましい」でしょう。あなたもご自身でこの両方のことを書かれているのに、この2つは矛盾しています。 GLOWは社会に何か訴えることを第一の目的とはしていないので、今回のようなことになればもう別にしなくていいやと考えるのは自然です。つーか、真剣にそう思ってしまいます。それで元がだめになったら元も子もないですし。 残念ですが、日本の現状はあなたの思っているほど進んでいません。僕たちは(あくまで大学の話で)現場を見てきています。 >「GLOWにすら入れない『うぶ』な人たち」と言っちゃうというのがちょっとだけ不安、というのは、わたくしも同感ですが、この点はもう金田さんが仰っているので、おいておくとして。 現実の学生の何を知っているんですか?確かに、GLOWが一律に敷居が低いというのは違うと思います。カミングアウトの恐れのある(これも偏見ですが、)GLOWを避けて、二丁目や掲示板に出るというひとは実際多いと思いますが、そのひとたちは自分で出られてるんだから、そもそも問題にしていません。小林さんの言ってるのは、二丁目にも出られない、GLOWにも行けないというひとたちのことです。たとえば、孤独のまま大学4年間を過ごし、最後の最後に匿名のメールだけしてくれたひと。一度はGLOWにきたものも、やっぱゲイっていうのはおかしい存在なんだと思いGLOWを去ったひと。親にゲイだということがばれ、精神科へ通わされたひと。もちろんGLOWになじめずまた孤独に戻ってしまったひと。今回も表には出られないひとが何人もいての上映会でした。それが現実です。あなたの現状の認識をもっと改めてほしいと思います。 僕たちGLOWは僕たちの現状を僕たちの視野から説明しただけです。勝手に解釈しないでください。映画のタイトルも一番シンプルでわかりやすいものにしようということで決まりました。同性愛者が身近にいることすら知らない多くの大学生の現状だからです。 もう少し学問と現状を分けてお考えになったらいかがでしょうか。(つまり、アメリカからの輸入学問の学者が日本の現状が見えてないのに現状について口出しするな。)そうしないのであれば、もっと現状を見る必要性が早急にあると思います。 GLOWはここまでの批判に耐えうるほどの企画は用意できかねます。学生だから甘えさせてくれと言ってるのではありません。根本的に趣旨が違うことを理解していただきたく思います。そしてその上でご自身の発言力の大きさを考慮に入れて、あなたの的を得ない批判(しかもあなたはメイン作品の映画を見なかった)が多くの人の目にさらされるのはGLOWとしてはなんとも後味の悪い思い出になってしまった。残念で、悔しくて、許しがたくてならないです。 >o-tukaさんぶちきれます。>@歴史うんぬんは別にかまわんが、OBが現状について口出しするな。
杉本くんへのあなたのコメントに対して>「平場で話をする」事は(意味がわかりますか?「対等な関係で」と言い換えてもいいです)、議論に際して最低限の礼儀と知性とが不必要だということではありません。批判も反論ももちろん結構ですけれども、その二点を持ち合わせていらっしゃらないのであれば、ブログ上でのコメントは控えていただきたいと思います。』 (少なくともあなたの言う)知識の少ない僕たちはいやなこと、不愉快なことをされても黙っていなくちゃいけないのですか?これは学者でありクィア学会というコミュニティの中心を担う権力者の暴力に対する抗議であり、権力者の押し付けたルールは守りません。
あと、勘違いされても困るので補足しておきますが、映画自体に対する批判ではないということは理解しています。僕は小林さんの、映画を上映した上で文脈の中の、発言に対して、映画での文脈を無視し勝手な都合で批判したということ自体を暴力的だと感じています。そしてあなたは映画に対しての批判ではないと強調していますが、タイトルは映画作品の一部ですし、映画内容を踏まえた上でのタイトルですので、杉本くんやほかのメンバーが映画見てないくせにけなしてきやがって!と思うのはごく自然かと思います。
>けいたさん「部外者が口出しをするな」、つまり批判なりなんなりをするなという「命令」だと解釈しましたが、けいたさんがわたしに命令したことは、ひどく矛盾しています。 批判をされたくないのであれば、なぜ早稲田祭という公の場に姿を現すのでしょうか。部外者からなにも言われたくないのであれば、こっそりと人目のないところで何かやればいいだけです。 そうはせずに公の場に姿を現す現在のGLOWに驚嘆と畏敬を覚えていました。なぜならば、自分が現役の学生(=学部生)の頃は、わたしを含めてほとんどのメンバーがもっとクローゼットに活動していましたから。 ところで公の場に姿を現すこととは、一方的に他者になにかを主張する場に登場するというのではなく、同時に他者からも何かを主張される場に進み出るということです。他者からの主張は同意や賞讃のこともあれば、批判や否定のこともあるのは、当然のことです。 自らの主張だけをして、相手の主張をはねのけるのは、まさに暴力ではないでしょうか。あるいは同意や賞讃だけ受け入れて、批判や否定をはねのけるのは、ただの独善ではないでしょうか。さらには公の場に姿を現す資格があると言えないのではないでしょうか。 わたしは今年度の早稲田祭に居合わせることはできませんでしたが、早稲田祭などにおいてGLOWが(そこで提示される主張なるものには疑問を抱きながらも)、他者からも主張される場に進み出ていくことを、大変素晴らしいことであると感じていました。ですが、少なくてもけいたさんの活動に関しては、おそらくわたしは誤解をしていたのかもしれません。けいたさんがわたしに向けた言葉から、わたしには、あなたのこれまでの活動が、なんだか単に自分の意見を主張するだけで事足れりとする、独善的な示威・自慰行為でしかなかったように思われてしまいました。 そういえばこのスペースはオープンになってはいるものの、わたしのコメントは冒頭をお読みいただければ分かる通り、形式的にはtummygirlさんあてのコメントです。 けいたさんのコメントは、わたしがtummygirlさんあてに書いたコメントにまさに「口出し」をしたものです。わたしに対して「口出しをするな」といったけいたさんの命令行為自体が、まさに「口出し」なのですよ。 おまけにわたしはけいたさんからなんらかの「命令」をされなくてはならない立場にありません。もちろんけいたさんもわたしになんらかの命令をされる立場にないことはいうまでもないことです。 もしもけいたさんが、口出しをされたくないのであれば、わたしがここのスペースに書くという行為も口出しをしないでください。 けいたさんだけ口出しをして、わたしの口出しを禁止するという行為は、言論上の暴力ですらなく、殺害行為です。 本コメントをお読みくださればお分かりになるとおり、わたしはその「口出し」を受け入れております。 >tummygirlさん 立て続けに発言し、そのうえとりわけ本コメントについては本エントリの趣旨からはずれた内容になってしまい、大変な失礼をいたしました。申し訳ありません。ここにおわびします。
>@さんそのとおりですね。ついつい感情的になってしまいありえないことを言ってしまいすみませんでした。ただ@さんの場合は部外者ではなくOBという権力を持つ立場にいることを考慮に入れてもらえたらなと思います。コメント消したいものなら消したいのですが、このブログだと消せないので、申し訳ないですが残したままになります。大変失礼なことをして申し訳ありません。>Tummygirlさん同じく、本記事の趣旨からそれた内容になってしまい、大変失礼いたしました。申し訳ありません。ここにお詫びします。
>@さんはじめまして。ええと、自動ドアの件はぼんやりと覚えているような気がいたします(笑)。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。GLOWの歴史についての御教示、ありがとうございます。そうですか、GLOWは90年代の初頭からでしたか。いわゆる「ゲイブーム(『クレア』を契機とした盛り上がり)」とは本当にほぼ同時期ということになるわけですね。今回の議論(にならないもの)とは全く別の次元で、そのようなサークルの歴史をうかがうと(90年代初頭に「リブ風味」を帯びつつ誕生し、それが薄れていき、2000年代に入って「大学に名前を提出する」ことに抵抗のないメンバーが増加し、そしてここ数年でほのかに「リブ風味」的なものが回帰する、という流れのことですけれども)、80年代後半から大学におけるLGBTを取り巻く環境をゆるやかに反映しているところもあり、けれども同時に「そっか早稲田同士か、じゃサークルでも」というような(一見)非常に個人的な地点から動かされているところもありで、非常に興味深いなと思います。多くの場や団体についての、それぞれの参加者が見たそれぞれの歴史(当然、一つの団体について複数の歴史が出てくることも多いでしょうけれども)を、もっと語り残す/書き残す必要があるかもしれませんねという話を、上にもコメントを下さっているid:mimi246さんのところでもしていたのですけれども、@さんのコメントを拝見して、ますますその気持ちが強くなります。「勉強しない、手軽にごまかす」はわたくし自身が自分の先生達ずっと言われ続けてきたことでもありますし、強くは言えない弱みがあるのですが(笑)。けれども、この場で議論をしようとしていることについて、さすがにだんだん徒労感がつのってきつつありましたので、「とりあえず対応しようとしているよね」と仰っていただけると、ちょっとほっといたします。ただ、最初に「通りすがり」さんが指摘下さっていたように、「勉強しなさいね」と言うなら言うで、今の学生さんに取っ付きやすいように最初の段階でもう少し言い方を考えるべきだったのかなと反省しています。
GLOW初代の方から創設の話はメールで教えていただいたことがあります。1990年に府中青年の家裁判事件があったときに、アカーでは同性愛者が抱える問題を抽出するために、当時ライフヒストリーを話す会を熱心にされていたそうです。そのアカーのメンバーの一人がこういう場所が自分の大学にもあったらいいなと考えるようになり、そのときに出会った同じ大学の学生と留学生2人とGLOWを創設したそうです。ですので、まさに府中青年の家裁判事件の文脈の中から生まれたサークルです。

 

[ 503] 自己主張と押しつけがましさ
[引用サイト]  http://www4.plala.or.jp/k-k/komoku067.html

相手に嫌われる理由のひとつに「押しつけがましい」ということがあります。 「押しつけがましい」とは上記のような意味ですから、嫌われて当然でしょう。 問題はなぜ押しつけがましくしなければならないのかということです。 なぜ自分の言うことやすることを、相手にも同意させないと気がすまないのかということです。 押しつけがましさが原因で人間関係が壊れてしまったり、夫婦の間にひびが入って離婚ということも珍しくはないのです。 夫婦間のことであれば、毎日自分が好きでもないことに同意させられたり、あるいは意に反してさせられるのですから、心がやすらぐ場がなくなってしまいます。
私は「自己主張はしなさい」とは言ってきましたが、「自分の意見を相手に押しつけろ」とは一言も言っていません。 自分の意見を言うことと自分の意見を押しつけることとは、似ているようでもまったく違うことのはずだからです。
このように両者は似ていますが、ニュアンスは微妙に違います。 その微妙な違いが、人の心には大きく響くのだと思います。 とくに夫婦のようにお互いに遠慮のない間柄にあっては、微妙な差の積み重ねがある日決定的な差になることがあります。 多くの夫婦が経験することではないでしょうか。 日頃気にもとめなかったことが、ある日突然夫婦関係に決定的な影響を与えてしまうことがあるのです。
なぜ押しつけがましくしないと気がすまなくなったのかは、ここでは簡単に触れます。 それは、次のような原因があると思います。
一口で言えば、自分の存在を相手に認めてもらわなければ自分自身が持たないからではないでしょうか。 自分に自信がないのに相手に認めてもらおうとするから、自分を相手に押しつけなければならなくなるのです。 本当の意味での自分がないということです。
押しつけがましさはお互いに遠慮のない間柄では、無意識のうちに起こりがちです。 夫婦の間にあっては、妻が夫に押しつけがましくなりがちです。 (理由は省略します。) 遠慮がないだけにきわどいことも、起こりがちです。 そのようなことの積み重ねが家庭で夫の心の安らぎを奪うことも、珍しくはないのです。 妻は自分が押しつけがましいということは意識していないので、相手を責めるばかりになってしまいます。 そのようなことが原因で離婚になることも珍しいことではありません。
なにごとでもそうですが、無意識に行われていることが意識されるようになることは、事態が悪化しているということです。 日頃から、お互いに思いやることが大切だと思います。 思いやっていると思っていることが押しつけになることもありますから、始末が悪いのです。
自身のある人がいつも頭が低く、多くの人に好感を持たれるのは自分を相手に押しつける必要性がないからだと思います。

 

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