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世間体とは?/ セントラルファイナンス

[ 412] なぜ世間体をそんなに気にしなければならないのか
[引用サイト]  http://www4.plala.or.jp/k-k/komoku109.html

私たちが生活していく上において「世間体」といううことは、よかれ悪しかれ避けて通ることのできないことです。 世間体という言葉は、どちらかと言えばあまりよくない意味で用いられることが多いようで、いい意味に用いるときは「世間並み、人並み」という言葉が使われることが多いようです。 「よくない意味に用いられる」と「悪い意味に用いられる」とは、ニュアンスが少し違うので注意が必要でしょう。
要は世間体を気にするとは、自分の価値判断の基準を自分自身に求めるのではなくて、他の日による自分の評価に求めることからでてくるものだと思います。 人は他の人の評価を意に介さなければ自己中心的だと言われがちだし、周囲の評価を気にしすぎれば心の安らぎを得ることが困難になります。 自分に対して責任と自信を持つことができなければ、必然的に他の人の考え方や生き方を必要以上に意識した生き方をするしか方法はなくなります。 なぜなら他の人による自分への評価が、自分自身への評価となるからです。 分かりやすく言えば、他の人にどう思われるか、どう見られるかによって自分の決断を自分が決めるということです。 そして心の安住する場所がなくなっていくのです。
世間体には気にしなければならないこともありますが(苦にすることとは違う)、多くはあまり気にする必要のないことだと思います。 世間体も常識と同じく自分の価値判断の基準に照らして、一度は疑ってみることが重要なのです。 その結果、その世間体と言われるものが自分が生きていく上で役に立つものだと思えば取り入れればよいし、自分の生き方にとってマイナスだと判断したら取り入れなければいいのです。 一般常識だという理由だけで、自分にとっても必要なものだと決めることはないのです。
この二点だけです。 これ以外の基準はないと思います。 あまりにも単純すぎるので自分でも疑問を挟むこともあるのですが、よく考えてみるとこの二つしかないのです。 この二つのうちで圧倒的に重要な基準は、「自分にとってどのような意味があるのか・自分にとって役に立つのか」と言うことです。
くれぐれも間違わないようにして欲しいことは、他の人の価値判断の基準に照らして自分のなすべきことを決定してはならないということです。 このことは悪い意味での自己中心的な考えや身勝手な行動とはまったく違うことなのですから。 日本人はこのことを誤解している人が多いように思われます。 ものごとを判断する基準を世間体や常識においてしまうと
他人の評価や考えが変われば(他人の価値判断の基準が変われば)、自分の考え方も同時に変えなければならず、絶えず他人の言動に振り回され続けることになる
このようにものごとの判断の基準を他の人(自分以外)におくことは、自分で自分を殺すことになるのです。 もしこうなっていたり、このようになる可能性のある人は思いきって自分を正直に表現することです。 だれになんと言われてもかまいませんから、自分の心の内を素直に、静かにそして冷静に表現してみることです。 はじめのうちは足がふるえて仕方がないかも知れませんが、相手に馬鹿にされるかも知れませんが、自分を素直に表現することです。 そして表現し終わった後の自分の気持ちがどんな風に変わるかを、身を以て体験することです。 この後のことは、そうできた人だけに分かることです。
そうできた人だけが日常生活のすべての面において、心の負担や恨みなどが嘘のように軽くなるはずです。 なくなるとは言いません。 なくなる人もいるでしょうが、なくならない人の方が多いと思います。 でも心の負担は軽くなるはずです。 勇気を出して、そのようにできた人だけに味わえる特権だと思います。
こんな偉そうなことを書いている私自身が、身を以て味わってきたことです。 私のようなものにもできたことは、だれにでもできるはずです。 決心ひとつです。 世間体を気にして、おどおどとした生活を続けたいなら今のままでかまわないだろうし、一度だけの人生だから生き甲斐を持っていきたいならどうしましょう。 一人一人の決断次第なのです。 どう決断するかは個人の自由なのです。 そう、この世の中は自由なのです。
私のいうことを納得できなければ、あなたの周りで世間体を気にして生きている人を観察すればずくに分かります。
このような言葉は、しょっちゅう聞かされる言葉だと思います。 そしてそう言っている人たちは、常に世間の評判やうわさを気にして、それによって自分たちのするべきことを決めているのではないでしょうか。 世間の評判ややりかたが変われば、自分たちのやりかたも変えなければならないので、いつも世間に目を光らせ、自分らしさを出すことができなくなってしまっているのです。 自分らしさを出せないことは精神的にいらいらするし、ひいては生活のすべてによくない影響を与えざるを得ないのです。
自分の生き方に自信を持つことが、どんなに大切なことか分かってもらえるのではないでしょうか。 自信を持つためには現実から逃げてはいけないのです。

 

[ 413] 技術系サラリーマンの交差点: 世間体
[引用サイト]  http://ytsumura.cocolog-nifty.com/blog/cat530767/index.html

そもそも小心な人はあまりウェブで発言しないので、「自分は小心だ」とことわりながらしゃべるのは、ボーダーライン上の少数の人だけ。そういう希少な例を集めてみる。
mocho さん、こんにちは。blogもさまざまですから。私は、blogを訪問したら、まずプロフィールを読むクチです。何が書かれているかよりも、誰が書いているかを知って、それからです。「何」を把握するまで読むのは時間がかかるけれど、「誰」には(ちゃんと書いてあれば)それほど時間がかからないから、というのが理由です。(こういう姿勢には反発を感じる人が多いのも知りつつ・・・)
書いている方は、組織の中の研究者でいらっしゃるようです。私以上に控えめにサイト作りをしておられて、しかも書きたい気持ちはたいへん強いということがよくわかります。親近感をおぼえますね。
> 某blogの某ネタに激しくウケるものの、それにコメントをつけようと思えばかなり差し障りのあるものになりそうなので「書けねぇっ!!」と保身のための自主規制。
NHKの歴代連続ドラマの中でも特に人気があった「おしん」は、ここ一年間再放送されてきて、もうすぐ完結だ。主人公のおしんが長い人生の中で、色々な商売を立ち上げては、成功したりつまずいたりする物語。商売というものは24時間休みなしなんだなー、でも働いたら働いた分、自分の成果になるんだなーと実感される。
おしんの跡取り息子のところへ、甘やかされて育った娘が嫁にきて、あまりに休みなく姑と小姑が働くためネを上げる。「だんなさまを送り出した後は、ゆっくりレース編みでもする生活を夢見ていたのに・・・」とぼやく場面とか。
こういう自営業の生活と比べたら、サラリーマンは勤務時間と勤務時間外の区別がはっきりしていて気楽だよなーという単純な実感から 組織の中の研究者・技術者がウェブで語るとき の中で
仕事と遊びを区別して割り切ることができるのは、サラリーマンの特権だ。個人として自分を売り込む専門家の場合は、「ホームページ作りに時間を使うより論文を書くほうが業績になる・・・」といった雑念も沸くかもしれない。逆説的だが、「自分はサラリーマンだ」と割り切れる人ほど、楽しく専門知識のページを作れると思う。
「かさねかさね」の「はんちゃん」さんは「色に関連する仕事をしている化学屋」という自己紹介で、サイトの内容は仕事とリンクしたものというより色に関する一般的な話題中心。「はんちゃん」さんが言っておられるように、同じ化学畑という以外には、私とはあまり接点はなさそうだ。
私は分析化学という、学術的に確立して長い歴史のある分野に身を置いてきた。その中では、新しい価値を生み出す最重要な場は「論文」または「特許」「規格・基準」といったものだ。これらより格落ちで、「学会発表」「学会や業界団体内での情報交流」などがある。「ウェブでの個人的な情報発信」は、ほんの少しの価値があるかどうかもおぼつかない。だから遊びと割り切るほうが楽しいだろう、と私は思う。(ただし、公の場でおおっぴらに遊ぶのは人目が気になるので、価値を生み出す方向で努力したほうが精神的にラクだも考えている。)
一方、「論文」「特許」「規格・基準」に類した制度を確立しにくい分野、または新しい分野においては、インターネットでの実験的な試みが大きな価値を持つ場合もあるのだろう。そういうところにいる人ほど、個人的なウェブページで社会的な意味のあることができるチャンスも多いと思われる。つまり、個人サイトでやっていることが、いつのまにか公に評価されるようになる、遊びが仕事になっている、というシーンが考えられる。
もともと仕事と遊びを区別して割り切る人は、仕事関係のホームページなんか作らないだろう、ということ。どうせやるなら、趣味のホームページでしょう。
仕事に関してウェブで語りたいサラリーマンは、実はサラリーマン的な部分でなく自由業的な部分で語りたがっている。そういう気持ちとサラリーマン的な根性との折り合いを付けながら、あまり目立たないように、なおかつ仲間が増えていく程度に目立つように、こそこそとサイトを作っていく。
本館 のページは、あくまで分析化学を主題とするサイトの一部で、読者も私に似た立場の人が中心なんだろうなと思いながら書いてきた。でもこのblogを始めて以来、違う業界の人とばかり話をしている。どうも、いちいち断らないと色々誤解を生みそうだ。
私は、小心なサラリーマン専門家に向けて書いている。つい人目が気になって、法的または道義的に問題のない行為まで自己抑制してしまう、そういうサラリーマン根性をあえて否定せずに、サラリーマン根性の根源を見つめ、その枠内でできそうなことを提案したいと思っている。
サラリーマン根性そのものがけしからん、打破しろ、という意見があることも理解できる。そういう主張のほうに興味がある人も多いだろう。そんな方は、こんなせこいblogは無視して、もっと大胆な面白いサイトを読むほうが精神衛生上いいと思う。
ところで、小心なサラリーマン専門家にいったい何が書けるのかという今回のタイトル。実名で専門知識を公開するための工夫 で書いているけど、
専門情報を扱うサイトを運営する楽しみとして、「検索で拾われて誰かの役に立つ」「リピーターになってくれる人もいる」ことを私は挙げている。こう書くと、知識そのものをネットに載せることに意義を感じているのかと取られるかもしれない。実は、ちょっと違う。
今やどんな分野でも、専門情報の体系は膨大だ。その一部といえども、個人の力で網羅的に掲載して維持管理するのは不可能に近い。どんなにがんばっても、ネットに載せられる情報は全体からすればごくわずかだろう。だから、知識をファイルにすることそのものを目的にしたら、きっとすごく疲れるだけだと思う。
私は、自分の知識の中から適当なひとかたまりを取り出してまとめ、それを通じて「面白いな」とか「そうだったのか」を表現したいと思っている。ただし、読者に何も新しい情報を提供しない文章では読んでもらえないから、素材選びには工夫している。幸い、分析化学の分野にはあまり書き手がおらず、今のところ素材には事欠かない。
他人の書いた公開情報はいいけれど、問題は自分が書いた公開情報だ。下手をすると1次情報と見なされる可能性がある。私は、自分の書いたものを2次利用するという方針でやっている。つまり、公開情報を寄せ集めて誰にでも書ける文章しか書いていない。(ただし一人称になるし、個人的な感想は入れているが。)
フタル酸エステルに関して私たちの研究班が発表した情報は、実際数多くの書き手によって2次利用された。論文の引用文献としてだけでなく、新聞とかテレビとか業界紙誌とかNPOのホームページとか。当時化学物質情報部におられた大竹千代子さん(現在 化学物質と予防原則の会 代表)は、研究班に対する情報提供と行政措置までの過程をまとめて博士論文の一部になさったくらいだ。(このこと自体は光栄だと思っています。)
このように誰にでも利用できる情報が自分にだけ利用できないとすればおかしな話で、他人にできる程度は私もやっていいだろうと考えている。ただし、決して「裏情報」や「ここだけの話」は書かないし、結論的なことは公式見解と一致することしか述べない。
『議論の中で「1次」「2次」の区別がいまいち曖昧じゃないかという印象がある。』と書かれていますので、ちょっと考えをまとめてみました。1次情報は論文として発表するまでは秘密にしないと・・・いきなりウェブで書く気前のいい研究者は、あまりいないのではないでしょうか。
自分の思い通りに表現してそれが世の中にも認められるという生き方は、大多数の人にとって憧れの対象だと思います。思春期の頃に、マンガ家やタレントになりたかったという人は多いでしょう。
ただ、サラリーマン暮らしも、けっこう居心地がいいんですよ。少なくとも私には。そういう気持ちが文面に表れていて、だからサラリーマン的な規範を主張しているみたいな印象があるんだろうなと思います。
平林純さんのblogより(3/6付け)。「うるさいこと」を書く と 私がいる業界の場合 がお返事になっているかと思います。平林さんにはそれほど過激なことを書かれたわけでもないのに「儀礼的無関心」という言葉が思い浮かぶくらいアクセスがあり、ちょっと怖かったので、今ごろこっそりとリンク。(「儀礼的無関心」は比喩として出しただけで、私のサイトはリンク自由です。)
私はけっこう「ウェブ上で実名を名乗るか名乗らないか」を区別して考えているけれども、「それより所属先を書くか書かないかのほうが重要だ」という見方もあるかもしれない。このことについて、少し考察してみる。結論としては、私は個人ページを開設して維持していく上で、所属先を書くか書かないかは、実名を書くか書かないかよりもずっと小さい影響しか持たないと考えている。
その最大の理由は、所属先を名乗ったことによって個人が何らかの責任を取らされたという話を聞いたことがないからだ。虚偽の身分を称して相手を信用させた場合には詐欺罪に問われたりするけれど、真実の身分であれば、少なくとも法的な罪にはならないと思う。(私が知っている一般常識の範囲ではということだが。)
ときどき、会社や業界団体や職能団体にとって不名誉なことをしたからという理由で辞職したり除名されたりする人がいるけれど、それは、その人がそれらの団体の一員と名乗っていたことが問題視されたわけではなく、団体の一員であるという事実そのものが問題視された結果だ。
日常生活で初対面の人に自己紹介するとき、仕事に関係のない付き合いであっても自分の所属先を名乗ることはよくあることで、個人サイト内のプロフィール欄に所属先の名称が書いてあっても、別に問題はないと思う。
違いが出てくるのは、所属先が書いてあれば個人ページの内容と所属先とを関連付けて解釈される可能性が高くなるという点だろう。書いてなければ、わざわざ調べない限り所属先との関連の付けようがないのに対して、所属先が書かれていれば、会社名で検索した人にまで関連がわかってしまう。でも、こういうのは印象や可能性の違いに過ぎないと思う。
一方、「論文や学会発表をしておらず、有名でもない個人の氏名は、実名かどうか確かめようがない」というのも現実的な話だ。この場合は、実名を書くかどうかよりも所属先を書くかどうかのほうが意味が大きそうにも見える。
でも、「仕事内容+実名」だけ書いても、少なくとも身近な人には所属先までわかる場合が多い。(よほど就業人口の多い仕事&同姓同名の多い氏名という条件が重なれば別だけど。)それに、オフラインの付き合いがある同業者とのリンクができてくれば、最初は無名の人であっても自然にネット上での存在証明が固まっていく。つまり、現時点で自分は無名だと考えている人にとっても、実名を出すということは相当に重いことだ。
そういうわけで、私は「実名を書くか書かないか」は重視するけれど、「所属先を書くか書かないか」はあまり問題にしていない。私にとって関心があるのは、サラリーマンができるだけ精神的な負担を感じずに専門分野に関する個人ページを開設するための方法論で、その中で言えるのは、所属先名を書かないほうが負担は少ないだろうということだけだ。
私の文章について「組織名を明示している人とそうでない人の区別がきちんとされていない」と問題視しておられるので、この記事はこの方の疑問に答えるために書いた。
市民のための環境学ガイド 2001年1月21日付け記事。すぐれた個人ページとしてよく挙げられる安井至氏のサイトのポリシーを示す文章が、末尾近くに書かれている。所属先とは一線を画して個人としての見解を発表するという立場。
B君:それでは、本日の記事に名前がでた研究者が、Web上で何を言っているのか、調べてみよう。うーーーーん。調べたところ、少なくとも個人Webページを持っていないことは分かった(見つからなかっただけかも)。自分の関係する研究結果やコメントが新聞に掲載されてしまったら、それに対する極めて詳細なコメントをWebに掲載するといったことは、もはやすべての科学者の義務だと思うが。
C先生:なかなかそこまで社会的責任を自覚している研究者は少ない。今回の新聞に名前のあった方々では、話題にしなかったが臭素系ダイオキシンの国立環境研の遠山氏は、ページを持っておられる。大分前になるが、井口先生にちらっとそのことを言ったら、「そんな暇はない」、と一蹴された。暇がないことなら、私も大抵の人に勝てる。井口先生ともよい勝負だと思うが。
ただ、個人で意見を述べようとする場合、大学のURLを使用しないことが一つの見識かもしれない。洗剤のページで有名な横浜国立大学の大矢先生のところの掲示板が相当熱かったようだし。最近では、個人でWebを作るのにも余りお金が掛からないよい時代になったから。
本ホームページは個人(1名)によって運営されております。所属機関や研究プロジェクトとしての公式見解では有りません。(安井至)
一番ありがちなのは、私が専門的な個人ページを公開する意義について「自己研鑽の動機付けになる」を挙げていることから、目的論と思われてしまう場合。これに対しては、続「世間体」を気にかけながら書く で三中さんたちに対する回答として説明した。
そして今回、思いがけず他分野の大勢の方に私の文章を読んでいただいて、「うるさいことを言うやつめ」的な反応が多いこともわかった。
私はひと様に道徳を説けるような立派な人物でないし、特定の思想や宗教を広めたいと思っているわけでもない。だから、私個人の価値観を述べている部分があっても、別に他人にまでそうなってほしいとは考えていない。
私の意図は、「サラリーマンが」「自分の専門分野について」「できれば実名で」個人ページを作りたいと考えたときに、躊躇する原因があるとすれば何か、精神的負担を減らしてウェブで語るにはどうしたらいいか、ということを考察することにある。だから、この三拍子のどれかが欠けている人にとっては、私が書いていることは「うるさい」と感じられると思う。また、「精神的な負担感が理由で個人ページを開設できない小心な人」を想定しているので、三拍子そろいながら既にウェブで発言できている小心でない人にとっても「うるさい」と思う。
しかも、実はもう一つ、私の発想が「うるさく」なってしまう要因がある。それは、私が 本館 で書いている内容はほとんど全て、国家公務員として給与をもらいながらやってきた仕事に基づくものだという事実だ。
経済不況が続いて、失業している人や就職できない人が大勢いる。どんなに経済的に困っている人でも、消費税を始めとした間接的な税は国に納めている。困っている人たちにとっては、公的な仕事で得た知識で余暇活動をしているやつが目に触れるのは不愉快ではないか?これは考えすぎなのかもしれないけれど、私にとっては重要な足かせ要因だ。
以上のようなところが、私が「うるさい」理由だ。方法論なので、必要ない人には全然必要ないし、読む価値はないと思う。
現状で、ホームページの作成方法に関するウェブサイトや出版物は数多くあり、HTMLの書き方やアクセスアップ法みたいな技術的な情報は簡単に得られる。でも、私が扱いたいと思っているようなことに関する方法論は極めて少ない。だから、私が提示しているものはこの分野での議論のたたき台になるのかもしれない。上に書いたことや 私がいる業界の場合 でわかるように、私の立場は最大限慎重で遠慮がちだ。こういう話は、出発点は慎重なほうがよいと思う。この先、各業界の事情に応じた話がいろいろと出てくるのだろう。
そうそう、道徳を説く立場にはないと書いたが、実は本当にうるさいことを言う気持ちも少しある。私は「サラリーマンが」「自分の専門分野について」「できれば実名で」個人ページを作ることを奨めているわけなので、これに伴う責任分だ。私が奨めたために実行した人がいて、その結果どこかの会社で困ったことが起こったりしたら、私は申し訳ない。特に、分析化学の業界でそんなことが起こったら、あの地方衛生研究所やらこの分析センターやらの管理職クラスのかたがたの顔が思い浮かんで、私はいたたまれない。だから、私の文章を読んで個人ページを作る気になったというかたがもしいたら、私が書いている「うるさいこと」にもどうぞ留意してください。
先日も紹介したが、まだのかたはぜひ。インターネットでの自己表現が技術者にとってどんなに糧になるか、素直に表現されている。
折りよく、医薬品会社勤務の ホーライさん が、 薬の誕生日記(治験日記) で「何故、僕はここで発言しているのか」(3/6付け)を公開されました。医薬品業界の場合はどんな感じなのかがうかがえる文章です。
それから、今回の話題にコメントされた皆さんの中で、三中さん方面から来られたらしき方のサイトにリンクして御挨拶させていただきます。もともと三中さんと私でやり取りしていたところへリンクが来たため、ふだんは話す機会がない業界どうしでのやり取りになりました。議論の結末を見ると私はやや心苦しいですが、それでも何かのたしになったと(少なくとも、取られた時間分くらい)思っていただけていればいいのですが・・・。
崎山伸夫さん(とある総合電機メーカーのコンピュータ関係の研究所勤務) Blog(3/4付け) あたりから。どの方面から来られたのか書いておられませんが、黒木玄さんの掲示板でよくお見かけしています。
「専門家は個人の責任で情報発信するな」という徳保さんの発言に対して、あちこちのblogや日記で強力な反対意見が多数書かれた。(この話題について読むのが初めての方は、まず 前記事 をどうぞ。)「そこまで会社に気を使う必要はない」「個人の発言によって会社が損害を受けたとしても、それは本人が会社で立場が悪くなるなどのリスクを覚悟の上でやることだから、本人の自由だ」「表に出たら困るような実態があることのほうが問題で、隠すことを強制したらむしろ改善が遅れる」などの意見もかなりあった。
私は 組織の中の研究者・技術者がウェブで語るとき で、「専門家としてレベルが低いとみなされそうなことは書かないのも重要だと思う。自分が恥をかいてすむことでない。会社のサービスや製品に不信感を持たれるような内容では、会社はひどく迷惑する」と書いている。こういう考えの背景について、よその業界の人たちにちょっと説明しておきたい。業界によってずいぶん常識ラインが違うようだから。
4年前のこと。調理用の使い捨て手袋の中で、ある材質から作られているものの使用を自粛せよと厚生省(再編前)が通知を出した。
調理用の使い捨て手袋というのは、食材を盛り付けたり手でこねたりする時に使う、塩ビやポリエチレン製の手袋だ。驚くほど広範囲に使用されている。コンビニ弁当・仕出し弁当・駅弁などの弁当類、学校給食や病院給食、外食産業、対面販売の食品の小分けなど。
使用自粛通知が出たのはDEHPという物質が入った塩ビ手袋。この種の手袋で弁当や給食を製造すると、毎日食べても人体に影響がないとは言い切れない量のDEHPが溶出して食品に混入するとわかったからだ。
通知の影響を受けた業種は多かった。DEHP入りの塩ビは手袋素材の中で最も多用されていたから、小さな給食室に至るまで日本中で対応が行われた。このことによって一番被害を受けたのは手袋業者だった。それまで大量に使われていたものが急に使えなくなるのだから、損害はたいへんなものだったろうと思う。(食品用以外には使うことができるから、他用途へ回されたのだろうけど。)
世の中に出回る商品やサービスには、素人でも簡単に良品と悪品を見分けることができるものも多い。そういうものについては「プロの技」や「専門家への信頼」のような漠然としたものはあまり意味がないかもしれない。
でも、分析結果はどうか。たとえば、鳥インフルエンザやBSEやダイオキシンについて、核心部分の情報はどんな人たちが生み出しているのか、皆さんは考えてみたことがあるか。ウイルスとかプリオンとか微量物質といった目に見えないものについて、検出したとかしないとか言う。その結果は、総理大臣にだってくつがえすことはできない。そして、その結果によって、莫大な金額が失われたり、会社がつぶれたり、人が不幸になったりもする。
あるいは、仮にあなたや家族が深刻な病気を告げられた場合。告げるのは医師だけど、その告知に至った根拠の核心部分は、おそらく検査技師が出しているだろう。
こういう仕事をしている人たちが、ウェブでいいかげんな仕事ぶりをうかがわせるようなことを書いていたらどうなるか。笑って読み流す人も多いかもしれない。でも、会社が倒産したり病気に苦しむ人にとっては腹立たしいに違いない。
どんなに手順書や管理職がしっかりしていても、手足を動かして検体に試薬を加えたり分析機器にかけたりするのは一人一人のスタッフだ。末端の技術者に至るまでちゃんとしていなければ、分析結果の信頼性はゆらいでしまう。
私自身も、DEHP入りの手袋の返品で困った人たちのことを考えると、専門家として信用をなくすようなことは一生(退職してからも)絶対書けないと思っている。DEHPの件は、今では私たちの研究班とは独立の研究班が追試実験して、やはり許容量以上が溶出することが確かめられている。でも、行政措置が行われた時点では、私たちの研究班のデータがすべてだったのだ。
今の世の中で、分析結果が経済や人命に与える影響の範囲はとてつもなく大きい。でも、業界外のみなさんのほとんどは、実際に分析をやっている特定の個人の名前を一つも挙げられないと思う。特定の分析機関の名前すら一つも知らない人が多いと思う。それでいいのだ。
だから分析業界の人には、自分がウェブ上で職業を明らかにして何か書けば、読む人にとってはたぶん自分が唯一の「分析屋」代表例になってしまうことを念頭に置いておいてほしい。これまでもこれからも、新聞やテレビでは常に何らかの分析結果が話題になっているだろう。各時期において焦点が当たっている分野の現場には、おそらく休日返上・連日残業の技術者たちがいる。そういう人たちの苦労を傷つけるようなことを書いたら、きっと後悔するでしょう。
組織の中に問題があっても隠しておけと言っているわけではない。問題があればまず組織の中で解決の努力をすべきだ。そして、どうしても自分の主張が取り上げられなければ、制裁覚悟でウェブで内部告発する人もいるかもしれない。それも一つの道だ。
でも、日々の不満の単なるはけ口や、あるいはサイトへの客寄せのために、自分の組織の分析結果に対して不信感を持たれるようなことは書かないでほしい。
私はインターネットでしゃべるにしては相当固いことを言っていると思う。でも、この姿勢にはそれなりの背景があるのだ。ネット文化がますます普及して、「ありのまま」こそが最高であるという風潮は今後も広がっていくと思う。そんな中でも、分析屋は最後まで「信頼を重んじる職種」であってほしい。
(一般向けに分析化学のことを書いたのは初めてだ。これからもあまり書かないと思う。私のサイトは基本的に同業者向けなので。というか、やっぱり最後は同業者向けになってしまった。)
細胞検査技師 高山須実子さんのホームページ。細胞診についての一般向け解説。特に化学分析業界の人には、profile and... に書かれていることは共感できると思う。これは日頃自由に論文やネットでの自己表現ができているという研究者のみなさんにも、ぜひ読んでいただきたい文章だ。なお、臨床検査技師さんたちはリンクリングを作っていて、現在57サイトが登録されている。
元地方衛生研究所職員、クロやんさんのページ。一般向けに書かれていて親しみやすい。分析屋という職種に興味を持ったかたはこちらへどうぞ。(ご注意:音楽が鳴ります。)
崎山伸夫さんのBlogの記事。今回書いたような論点について最も詳しく書かれているから、トラックバック。
前記事の書き方だけでは不十分かもしれないと思ったので、補足しておく。個人ページは本人だけの責任で作るものだ。組織または他人にちょっとでも責任の一端をなすりつけられると考えるのは甘い、ということ。
徳保さんの最初の提起は非現実的だが徹底しており、筋が通っていた。しかし、どうも最終的には「自分だけで判断せずに、誰かにチェックしてもらいましょうね」という努力目標に置き換わってしまいそうだ。
ウェブデザイン業界というところでは、今後は「ちゃんと上司にもこのサイトのことを伝えてあります」などと公言する個人ページが増えるのでは?
つまり、徳保さんの文章には「単に他人の好意を当てにしてチェックしてもらうだけの行為」のことを「組織のチェック」と呼んでいる部分があまりに多いので、混同する人が出てくるのではないか、ということ。まあでも、他業界のことだから、ウェブデザイン業界ではそれでいいのかもしれないけど。
私と近い立場にある人に対しては、注意しておく。たいていの「組織」は、そんなに簡単にチェックしてくれたりお墨付きを与えたりはしてくれない。お墨付きがほしいなら、組織にとってもメリットがあることを示しながら、それなりの手続きを踏んで承認を得るしかない。(前例がない事項については、おそらくトップに近いところまで上がらないと判断は降りない。)
そこまでする気がないなら、完全に個人の責任でやるのが筋だろう。自己チェックだけでは不安だから友人や同僚や上司に見てもらうのはいいことだ。そういう人脈はなるべく豊富に持っておくほうがいい。でも、「誰々さんに見てもらった」と公言するのはやめたほうがいいと思う。特にその誰々さんが自分と同じ組織の人である場合は、読者に対して個人ページの内容が組織と関係あるように見られてしまう。
私自身、私のサイトを見て公開の感想を書いてくれているところへのリンクは張るが、個人的に誰から意見をもらったとか、所属組織の中で誰かに見てもらっているかどうかなんてことは、一切明らかにしないつもりだ。
徳保隆夫さんの「備忘録」に 専門家は個人の責任で情報発信するな 以下、いくつもの記事が続いている。かなりあちこちからリンクされて話題になっているようだ。
私は 組織の中の研究者・技術者がウェブで語るとき という文章の中で、注意点として「専門家としてレベルが低いとみなされそうなことは書かない」を挙げ、「かといって、常に完全無欠な内容だけを書くことは、常人には不可能だ。(中略)未熟ななりにそれを自覚して向上しようとしている姿勢があれば、会社への不信感は持たれないと思う。」と書いている。徳保さんが言うには「いささか甘い」「これを無敵の盾として、恥知らずなプロが無知を平気でさらけ出すケースがどれほど多いことか」とのこと。
これに続く徳保さんの主張は、WWW でプロが専門分野について個人の責任で発言することは、原則として禁止すべきというものだ。勤務先を書くのはダメだし、実名を出すのもダメだし、なんと匿名であってもダメだという。匿名でもダメという理由は、匿名で無知や無能な仕事ぶりをさらけ出すと、業界全体の信用がなくなるからだそうだ。
ここまでのことを言う人がいるとは、正直なところ予想もしていなかった。このような考えに基づけば、およそすべての職業の人がウェブでの発言禁止の対象になる。医者も弁護士も大学教授も芸能人も政治家もクリーニング屋もトラック運転手も、それぞれの業界の一人として職業を営んでいる。クリーニング屋さんが自分のblogで業界の話を書いたりするのもダメということだ。ウェブだけでなく、印刷物や放送も対象になるだろう。
徳保さんが上記のような主張に至った背景には、ウェブデザイン業界においてネット上で問題発言をする人が多いということがあるらしい。具体例が色々書かれているが、
自分の勤務先を明かしながら、自分の仕事は「我流」で「いろいろ実験的に試した結果うまくいった、という感覚」と書いたデザイナーがいる。この人の公開しているサイトの技術的な部分が、徳保さんの目から見たら専門家としてレベルが低い
業界の中で超有名な会社にかつて勤務していて著作もあるデザイナーが、自サイトのメインの更新を「いじりようのないサービス」でやっている。
クライアントによって改善させられた自分の作品について、クライアントの実名付きで愚痴を書いたデザイナーがいる。しかも、素人が見ても明らかにクライアントのセンスのほうが正しい。
こういう業界の実態を持ってこられて私の文章を「甘い」と言われても、そんな業界のことは想定外だったと言うしかない。分析化学の業界周辺では、そんなめちゃくちゃなことをウェブで書く人はいない。私の業界の場合は、上記文章程度の注意喚起で十分だと思っている。
(わき道だが、徳保さんが挙げた例の中で「いじりようのないサービス」については、私はむしろ好感を持った。昔から「医者の不養生」「紺屋の白袴」という言葉がある。プロだからこそ、自分のための仕事には色を出したくないとか、手間をかけたくないといった心意気があるような気がする。そのサイトを見ていないし、勝手な解釈かもしれませんが。)
しかし「発言禁止」は極端すぎるのではないか。さすがに徳保さんも、そこまでのことは主張していないようだ。当初から「後付けでいいから、組織のお墨付きを得てほしい」「基本的には公式情報といえるレベルのものに限定した方がいいのではないか」など、あれこれ留保条件があった。昨日の記事では 専門家の情報発信:現実的な提案 として、次のようなことが。
ベストは、公式にお墨付きを得ることです。組織と責任を分担しあって情報発信するのです。しかしなかなかそれは困難でしょう。であれば、現実的な方策として、せめて上司に自分のサイトを教えておくべきです。それだけのことで、相当の歯止めがかかります。発信前にきちんと情報を精査できるようになります。
仲のよい同僚にサイトを教えてもあまりプレッシャーになりませんが、それでも秘密にしているよりはマシでしょう。
あるいは、匿名(HN 使用可)になって趣味のサイトという形式を装うことですね。そういう問題回避策もあります。
まあ、よその業界のことだから、当事者で好きなようにやってくださいと言うしかない。(徳保さんって、当事者ではないという立場なんですよね?ウェブデザイナー業界を憂える一般人ですかね。)
ちなみに、私のサイトでは 運用方針 で「1.公開されている情報または周知のことがらのみで構成する----自分自身が書いた論文・報告書の要約や、他の人が書いた文章の引用、公開サイトへのリンク等のみで構成する」と決めている。私のページ内容で自分の仕事に関わる部分は、論文や報告書として発表された段階ですべて組織のチェックが入っているし、論文に関しては投稿先の編集委員会による査読も入っている。
分析化学をはじめとする化学周辺の業界の人たちは、徳保さんの提案は他業界の話だと割り切るほうがいいと思う。個人ページに対して「後付けで組織のお墨付きをとる」なんて、機器分析を行うようなある程度大きな組織にとっては迷惑でしかないだろう。ウェブデザイナー業界では個人サイトも自社の宣伝になるのかもしれないが、化学関連業界でそんなケースはあまり考えられない。西田立樹さんのサイト ほどの内容になれば組織のお墨付きもありげに見えるが、あそこまでのことを(余分な給料がもらえるかわからないのに)やる覚悟があるのか。組織にとってメリットのないこと(自分の趣味)のために組織に手間をかけさせるのはどうかと思う。
上司に自分のサイトを伝えておくというのも、その上司と個人的に仲がいいというなら個人の親切レベルでチェックしてもらってもいいかもしれないが、後で「ちゃんと上司には言ってありました」と言いたい下心があるなら、やめたほうがいい。上司に責任をかぶせることになる。
私の場合、公開されている情報だけで構成するかわりに、それらを取捨選択したり文章にする段階での責任は自分が負っている。この程度のことが自分の責任でできないならば、ウェブサイトを持つのはやめたほうがいい。
ウェブサイトを作る人が多すぎて、過激なことを書かなければ読者を確保できない業界もあるかもしれないが、現段階の分析化学の分野では、活字になっていることをネットに載せるだけで検索に拾われ、リピーターも訪れるサイトになる。なにしろ、ほとんど書き手がいない(しかも読み手はけっこういる)状態だから。
ところで日頃「世間体」を気にかけておくのは、危機管理の一種だと思う。インターネットのように、法律に触れずに個人ができる範囲が広い場では、個人の良識と周囲の目が主な規制枠になる。自分の良識を再確認しておくのはもちろんとして、世間が最大限干渉してきたときにもたじろがずに自分のスタンスを守れるのか、徳保さんみたいな人が自分の業界に現れたとしたら?と考えてみるのは、職業に関わる情報を公開するすべての人にとって有意義だろう。
それから、私のサイトを他業界の人が見に来ることもあるとわかった以上、当該ページには、「これは化学関連業界のかた向けです」といった断りを入れることにする。特に医療関係の情報発信に関しては 日本インターネット医療協議会(JIMA) がかなり長い活動歴を持っている。問題が多発している分野の人たちは、JIMAのやり方も参考にされてはどうか。
**さんは、「自分はまだ未熟だけれども、頑張って勉強していこうと思っています」ということをおっしゃっている。津村さんは、そう断りを入れておけば大丈夫だろうとおっしゃった。
の部分ですが、私は、本人が断りを書くかどうかは問題にしていません。「未熟ななりにそれを自覚して向上しようとしている姿勢」を問題にしています。やたら「未熟だけれども」と文字にする人はむしろ信用できない。この部分は引用が不正確です。正確にしていただきますよう、お願いします。
三中信宏さんの 日録(2/28) で、再びのコメントをいただきました。「自分を縛るもの」をわざわざ用意して「この範囲内でやりますよ」と明示しておくことで、かえって自由な気持ちでできるかもしれないというのが、私の方法論です。でも、この方法論が他の人にも当てはまるかはわかりませんし、三中さんのような姿勢の方が潔いなとは思います。
徳保隆夫さんの「備忘録」に 専門家は個人の責任で情報発信するな が掲載されました。とりあえずリンク。Web デザイン業界はおかしい を併せて読むと、背景がなんとなくわかるような。
前の記事 に対して三中信宏さんがわざわざコメントを付けにきてくださって、こちらこそどぎまぎしています。it1127さんとonoさんのコメントも合わせて、お返事モードで記事として書きます。
ウェブで語るのは「自分のため」が基本でありながらも、公開の場で書くこと自体、誰かの反応がほしいという気持ちがあるわけで、他人のためになる(=より多く読まれる)ことがすなわち自分の励みにもなる・・・という動機づけ経路が存在することについては、多くの人が言及しています。
私が使っている言葉が「世間体」や「言い訳」であることに御注目ください。「社会貢献」「社会的意義」等の語は意識して使わないようにしています。
「世間体」や「言い訳」というのは、自分(の保身)のためにすることですよね。実態は自分がやりたいからやっているだけだとしても、宮仕えの身であれば特に「世の中のためにもなってます」と言えるように体裁をつくろっておくほうが精神的にラクでは?ということです。
社員が個人的にやってることが世の中全般の役に立ったって、会社にとっては別にありがたくないんです。問題は、会社にとってメリットがあるかどうかです。
それなら「自分の専門性を高めるためにウェブページ作りが役立っている」ことがわかるサイトにするのが良いのではないか。つまり、会社の持ち駒である自分の技量が高まって会社にもメリットをもたらすかのような期待感のあるサイトにすることだ・・・というサラリーマン的ヒクツな発想が、私の提案の核心です。
本館では格調高く書いたつもりですが、こうしてコメントに答えて中身を説明すると、ミもフタもないですね。
それからサラリーマン研究者は自営業的な研究者と違うのかという点ですが(三中さんの日録(2/27))、私が知る限り、違うと思います。一般企業や地方研究機関の研究者には、実名あるいは自分の仕事内容がわかる形でサイトを開設している人はほとんどいません。個人的に話せばウェブで自己表現したい気持ちを持っている人はけっこう多いにもかかわらず。
サラリーマン研究者は人目を気にします。私は、サラリーマンがウェブで発言できる程度に人目が気にならなくなるヒントを何か提供できればと願っています。分析化学というのがそもそも方法の科学で、何によらず方法論の話は大好きです。
方法を論じる大前提として目的があります。私が主に想定している目的は「ウェブで語りたい」という個人的な欲求ですが、「社会の役に立ちたい」であっても応用は可能だと思います。あまり意識せずに気分によって目的が変わる人も多いのでは。その点はit1127さん、三中さんとちょっと観点が違いますね。私は各人がどんな目的でサイトを作るかについては関知しておらず、特定の目的を実現するための方法を書いています。
ウェブで個人として情報発信する研究者は結構多いし、情報発信のための方法論に関するページもいくつか存在している。そういう面だけでとらえれば、私のウェブサイトは特に珍しいものではない。
私のサイトが変わっているのは、組織の中の研究者・技術者のために情報提供したいと考えているところだ。「組織の中の」というのは、噛み砕けば「サラリーマン的な」とも言い換えられる。例えば自分の名前で論文を出すには出すが、その仕事の内容は組織として行ったもので、たまたま自分が担当者だったから筆頭著者になっているだけだとか、企業秘密に関わる研究内容が多くて、そもそも論文が出せないとか。名前が売れても何のトクにもならないサラリーマン専門家がウェブで何かを語るということについて、あれこれ考えている。
これに対して、組織に縛られない研究者という立場がある。もっとも、完全に縛られない状態というのはないだろうが、個人として独自性を出すことに価値があると一般的に認められる立場にある人たちということ。そして、研究テーマの設定や時間の使い方について個人の裁量範囲が大きく、結果責任も大きい(次のポスト獲得や研究予算獲得にはね返る)、そういう立場を仮に「自営業的な」立場と呼んでおく。
これら2つの立場は明確に二分されるものでなく、一個人に両面が同居する場合も多い。でも、たいていはどちらかの立場のほうが強い。
もっともリアルに表現する言葉が「世間体」だと私は思う。自営業の場合は、ウェブでの発言に大きな労力をかけた結果は自分に返ってくる。だから、人脈作りに役立つとか、新しい着想を得るとか、単にストレス解消になるとか、経路はさまざまだろうけれども、とにかく自分にとってプラスになると思うだけ時間を使えばよい。
これに対して、サラリーマンは直接的な結果責任を負わない。仕事に真面目に専念しないサラリーマンにも給料が支払われ、雇用が確保され、損失を組織がかぶる比率が高い。こういう場合は、少なくとも人目に付く範囲においては、自分が納得するだけでなく他人も納得できるような時間の使い方というものを心がけておかないと、周囲の人にストレスを与えてしまうことになる。
それから、自営業的な専門家は、組織とは独立した才能や個性とみなされやすいが、サラリーマン的な専門家のやることは、どうしても組織と一体とみなされてしまいがちだ。
端的に言えば「インターネットなんかにあまり熱心になっているように見られたくない」「あの会社の社員がこんなことをしていると思われたらまずい」といった気兼ね。これを「世間体」と言う。
こういうことを、もっと長い文章で書いたのが、組織の中の研究者・技術者がウェブで語るとき だ。これに対して、独立行政法人・農業環境技術研究所の 三中信宏さん が感想を書いてくださった。日録(2003年12月29日) にはこのようにある。
確かに「組織の中の研究者・技術者がウェブで語るとき」には人によって動機付けが異なるだろう.ぼくにとって?――それは「自分のため」です.少なくとも他人のためではありえない.そういう利己的なモチーフがあって初めて持続するパワーが生まれるのだと思います.津村さんは「自己研鑽の動機付け」と言っていますが,「研鑽」ということばはあえて外してもかまわないのではないですか? 「自分のため」だけで十分.
「自分のため」だけでは不十分な人たちが大勢いると思う。「自分のため」と言い切れる立場を手に入れるのは非常に難しい。
(説明すると、筑波の国立研は2001年に軒並み独立行政法人化され、自由度が増すと同時に業績評価も厳しくなった。これに対して私の所属していた国立研は行政との関連が深いとして独法化されていない。また、私の現在の立場は前のポストよりももっとサラリーマン度が高い。)
三中さんのコメントは2ヶ月前のもので、何か反応したいと思っていたが、本館 ではきっかけがなかった。今ごろこちらで書いてみた。
そういうわけで、このblogのキーワードは「世間体」だ。ホンネでは自分の楽しみとしてウェブで発言したいサラリーマンのための「言い訳」を提案していく。
1月24日にこのblogを公開して、ほぼ一ヶ月が過ぎた。自分自身blogというものをよく知らなかったので、とりあえず始めてみて、なりゆきまかせで思いつくままに書いてきた。このへんで、本館から来てくださる読者向けに、blogというまだあまり知られていないスタイルを紹介しておく。(しかし、本館から読みに来てくれている人がいるのだろうかという疑問も・・・本館関係者からのコメントは一度もないし。)
あれこれ説明するよりblogが広がっていくさまをリアルタイムで見てもらったほうが早いと思ってやってきたが、コメントへの返信を含めると、特にこの一週間はほぼ日刊ベースの更新になってしまった。こんな状況を最初に見てしまうと「blogというのは、ものすごく忙しそうだ。とてもあんなことはできない」と感じる人がいたのではないかと心配だ。
このところは「アクセス解析」という一般の関心が高いテーマを選んで書いているから忙しいことになってしまったが、研究者・技術者の皆さん向けに提案しているのは 分析化学/化学分析を延々と語る のような内容のblogなので、コメントが次々付く事態にはならないと思う。何週間も何ヶ月も間隔を置いて、中身の濃い記事が書かれ、静かにトラックバックが広がっていくようなのをイメージしている。
とはいえ、ここまでの記事を見てもらえれば、blogはどんどん広がるものであることも実感していただけたと思う。特に、トラックバックについてはblog独特のもので、説明を聞いてもピンと来なかっただろうが、ここ数日でいくつも実例が増えた。私が記事の中で「トラックバックします」と述べているリンク先をクリックすれば、むこうの記事に私の記事のタイトルや冒頭の数行が書き込まれているのを見つけられる。また、私の記事の後に「この記事へのトラックバック一覧です」とあって、他の人の記事のタイトル等が書かれている。これは、他の人が付けたトラックバック。
blogはコメントとトラックバックという仕組みによって際限なく広がるようだ。だから、研究者・技術者のblogだけど、少しは専門外の人とも話したいという場合は、例えば残留農薬分析の苦労話みたいなものを書いて無農薬野菜系のblogにトラックバックを送ってみるとか、そんなことを試みるのも楽しいだろう。望めばそういう可能性もあるのがblogというツールみたいだ。
逆にマイペースで行きたい場合は、コメント・トラックバックを受け付けない設定にもできる。(でも、せっかくblogをするなら、トラックバックはできたほうがいいと思うけど。)あと、ココログは特に交流が活発という特殊事情もあるだろう。
それから、普通のホームページと比較して更新が簡単という点を強調しておきたい。日刊ベースの更新ができるのも、掲示板に書き込むような手軽さだからだ。本館のほうでは、記事を一つ書いたら新着情報欄も更新しなければならないし、ファイルのアップロードのためにFTPというソフトを立ち上げる必要もある。
ココログでは、記事さえ作れば、「最近の記事」欄やバックナンバーやサイト全体のリンク体系が自動的に生成される。これだけのことを手作業でやったらかなりの手間だ。
私が書きたい分析化学の記事は、だいたい2,000字から5,000字くらいのものが多い。一方、読みやすさを考えると、一記事が3スクロールくらいには納まるようにしたい。すると、ブラウザのウインドウ全体を使って表示するのが最も効率がいい。ウインドウの大きさは閲覧者が調節するという前提で。
ところが、このココログのデザインは、改行幅が固定されていて、長い記事を載せると延々とスクロールして読むことになる。ついでに、文字サイズも固定だから、字が小さすぎると感じる人もいるのではないか。
それに、「バックナンバー」のページは、記事のタイトルだけリンク付きで並んでいれば十分だと思うのだが、なぜか記事そのものがずらーっと並ぶようになっていて、冒頭にタイトル一覧があるわけでもない。こんなところに長い記事があったらスクロールの嵐で、過去記事を読むのはものすごいストレスになる。
というわけで、分析化学/化学分析を延々と語る の記事を本館と並行してこちらにも載せていきたいと思いつつ躊躇している。こちらではコメント・トラックバック用に冒頭部分だけ載せて、全文は本館で読んでもらうようにしようかとも考えている。
これからblogを始めて長い記事を書こうと思っている方は、いろいろなサービスを比較して、自分の書きたいものに合うのを選ぶのがいいと思う。
それからショックだったのは、職場によってはblogは閲覧禁止サイトになっていて読むことができないらしいと知ったことだ。
専門的なページは、検索で拾われて仕事に役立つというきっかけから知られていく。職場から読めないのでは、せっかく書いた記事が役立てられる機会が少なくなってしまう。いったいどの程度の範囲の職場で閲覧禁止になっているのか、ほそぼそと調査中。情報をお持ちの方は教えてください。
そもそもblogは日記用のツールだから、専門的な小論文に向いていないのは仕方ない。それでも魅力的な機能があるから使うのか、やっぱり普通のホームページのほうがいいのか、さらに使ってみてから、いずれまた記事にまとめてみたいと思う。

 

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