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[ 185] 読冊日記 2004年 6月中旬
[引用サイト]  http://homepage3.nifty.com/kazano/200406b.html

追加される漢字全578文字はこちら(pdfファイル)。漢字の意味による価値判断がまったくなくてニュートラルなところがクール。常用漢字にも「殺」とか「死」とか入っていて今でも自由に使えるんだから、「糞」とか「呪」とか入ってても別にいいと思うのだけど。でも、どう使えばいいのか戸惑うような字も多いですね。「娃」とか「祢」とか「昊」とか、意味も読みもよくわからないような字まで入っている。単に増やすだけでは、やたら難しい字ばかり使った暴走族風の名前が増えるばかりの予感。これじゃ、書きにくく読みにくい名前をつけられる子どもの方がかわいそう。まあ、あくまで見直し案にすぎないので、これから不用な字が減らされていくのだろうけれど。
あまり関係ないが、近所に「○○苦味子」という表札が出ている家がある。たぶん「くみこ」と読むのだろうけれど、いったい親はどういう意味でつけたんだろう。苦み走ったいい女になれ、という意味なのかな。
綿矢氏は、「タイトルを盗んで名詞だけを変えた」「恐ろしい人間だ」などと田中氏に憤慨し、「蹴りたい田中」の内容は自分の駄洒落への見解とはまったく相いれない、と語った。法的手段を取るかどうかには触れていないという。
『蹴りたい田中』は、ブンガク組にエリスンのタイトルを盗まれて悔しい思いをしていたSF組の敵討ちなのかもしれない。やられたらやり返す。それがSFの非情な掟。よくやった、田中! 敵はとったぞ、エリスン!(……たぶんエリスンは知らないだろうけれど)
ブラッドベリ氏は、「タイトルを盗んで数字だけを変えた」「恐ろしい人間だ」などとムーア氏に憤慨し、「華氏911」の内容は自分の政治的な見解とはまったく相いれない、と語った。
であって、「まったく相いれない」なんてどこにも書いてない。ブラッドベリが言いたいのは「政治的な見解は関係ない。タイトルを盗んだことが問題なんだ」ということでしょう。
いつだったか以前にも日記で取り上げたことがあるけれど、マイクロソフト社の共同創設者で大のSFファンでもあるポール・アレンが私財を投じて建設したシアトルのSF博物館が、ついに6月18日オープンだそうな。
オープニングの日には、ベア、ベンフォード、ブリン、オクタヴィア・バトラーのサイン会があるほか、「スタートレックの物理」と題された講演会も。今後の予定をみると、「男性作家が語るフェミニズムSF」とか"Nuke Pop"(原爆投下がアメリカと日本のポップ・カルチャーに与えた影響)とか、なかなか面白そうな講演タイトルが並んでます。
展示品も、カーク船長の椅子とかブレード・ランナーのレイチェルの服とかヴィジュアルもののほか、『われはロボット』や『華氏451度』の初版本だの、1939年のファンダム人名録だの、なかなかマニアック。
SFの殿堂には、アシモフ、ブラッドベリ、E・R・バロウズなどなど錚々たる作家たちの名前が。へえ、ウィルスン・タッカーってまだ生きてるんですか(といっても、知ってる人は少ないだろうが)。
おや、去年の記者会見のこの写真に写っているのは、ヤノベケンジのアトムスーツじゃあるまいか。なんでこんなところに。
「ぱど厨」という言葉を知ってから、ぱどタウンをちょくちょく眺めているのだけれど、やっぱりぱどタウンの小中学生のコミュニケーションのあり方ってのは、私たちが慣れ親しんだ従来のネットコミュニケーションとはあまりにも違っているようだ。
ドアからドアへ(個人スペースへのリンクはドアの形をしているのである)小中学生の作ったページをいろいろとたどり歩いていると、気分はほとんど文化人類学者。ぱどタウンは、奇妙な習慣、謎の風習に満ち満ちた未踏の大陸なのである。
まず、いくつかの個人スペースをのぞいてみて最初に驚いたのは、掲示板を読んでも、まったく会話が成り立っていないこと。
などというゲストの書き込みがあるのだけれど、その前をいくら見ても何が「そぅですよ」なのかわからない。話がまったくつながっていないのだ。
これはいったいどういうコミュニケーションなのだろう、としばらく悩んでしまったのだけれど、書き込みの前についているドアのマークをクリックし、書き込んだ人物のスペースに飛んでみてようやくわかった。
先の書き込みは、つまりは相手の掲示板に書かれた書き込みへの返事だったのだ。つまり彼らは、お互いに相手の掲示板に書き込むことによって会話を交わしているのだった! なんと面倒なことを、と思わず呆れてしまったのだが、これはつまりケータイメールによるコミュニケーションの流儀をそのまま掲示板に持ち込んだものであり、彼らにとってはこのやり方が自然なのかもしれない。
このような作法がある以上、ひとつの掲示板に複数のゲストが書き込みをしていたとしても、ゲスト同士で会話をすることはありえない。あくまでオーナーとゲストという一対一のコミュニケーションが複数並行しているだけなのである。
ただし、書き込みをしたゲストの個人スペースに飛んでみても、該当する書き込みが見つからないこともある。それどころか、掲示板に何ひとつ書き込みがない場合もある。これはどういうことなのか、しばらくわからなかったのだけれど、「返事をしたら消します」などという注意書きがあるページがいくつかあるのを見つけて理解できた。
つまり彼らは、掲示板をリアルタイムのボードチャットに使っており、自分の掲示板に相手の書き込みを見つけたら、まず相手の掲示板に返事をし、そして自分の掲示板への相手の書き込みを消しているのである。これもまた、ケータイメールのやりとりの模倣にほかならない。
彼らは、掲示板を傍から読む第三者のことはまったく考慮していないし、むしろ彼らにとって、そんな第三者は迷惑な存在なのだろう。そのことは、ぱどタウンの小中学生のスペースの多くに、「はしご禁止」という注意書きが見られることからも推察できる。
最近よく質問される「はしご」とは、たとえば、Aちゃんの部屋に書き込んでいる、Bちゃん(知らない人)の部屋に書き込みに行くことです。さらにBちゃんの部屋からCちゃんの部屋へと、次々に部屋をはしごするという意味のようです。
なぜこの「はしご」が多くのページで禁止され、小中学生に忌み嫌われているのか、わかるだろうか? 私には、さっぱりわからなかった。彼らの個人スペースでは、約束事として「荒らし・はしご・チェンメ・悪口禁止」などとまとめて書かれていることが多いのだけれど、他の3つは確かに迷惑だが(チェンメ=チェーンメール)、「はしご」はなぜ禁止されなければならないのか? たとえばmixiなどのソーシャルネットワーキングでは、友人の友人のところに書き込んで、友人を広げていくことはむしろ推奨されているのではないか?
といった発言と関係があるように思われる。ぱど彼、ぱどカノ、ぱどダチ(そのほか、ぱど妹、ぱど双子などもいる)とは、ぱどタウン内での彼氏彼女、友だち関係のこと。どうやら、彼らは、友だちや、彼氏彼女を「取られる」ことを恐れているようだ。すなわち、「はしご」をされて自分のぱど友やぱど彼の掲示板に書き込まれた場合、「とられた」という気分になるのではないか……と推察したのだけれど、これが正しいのかどうかはよくわからない。
さて、「ぱど厨を見るには、ぱど厨の目がいる」というわけで、私もぱど厨になってみた。今のところアドレスは公開しないでおくが、プロフィールは中1女子ということにした。冴えない30男が中1♀とは詐称ではないか、と思われるかもしれないが、実はこれはぱどタウンでは推奨されている行為である。公開情報を登録するページでは「ここから下で登録する内容は実在のあなたと異なっていてもOKです」とあり、それとは別に本当の個人情報(非公開)を登録するシステムなのである。ハンドルは、なんか厨っぽい名前はないかと思って本棚を眺めていて、たまたま目に入った本の背表紙から取り「泊亜蘭」としてみた。今日泊先生申し訳ない。
ぱどでは、各タウンそれぞれに「住民センター」があり、そこの掲示板に「初めまして」の書き込みをして自分のページの宣伝をする習わしのようなのだけれども、私は1ヶ所でしか宣伝しなかったせいか、1日たっても自分のページへの書き込みは二つだけ。しかもそのうちひとつは女の子とみれば声をかけまくっている高校1年生男子だし(1回書き込みのやりとりしただけで携帯のメールアドレスを教えろときたよ)、もうひとつはこの日記の読者(´Д` )。すいません、負けました。あなた見つけるの早すぎです。でも、「4月20日の日記がどうの」とか「嫌韓がどうの」とか、ここ読んでないとわからないようなこと書かないように。
やっぱり全住民センターで宣伝をした方がいいのかなあ。もしかすると、部屋にインテリアとして畳ベッドと魔除けのお札を置いたのがいけなかったのだろうか。畳ベッドは中1女子らしくないですかそうですか。
きのう書いた「はしご禁止」について、とりこさんから教えていただいたのだけれども、これは、ぱど文化というより、昔からある女の子文化の延長と考えた方がいいらしい。
とりこさんによれば、小学生の女の子文化というのは、誰かが誰かに対し、他の誰かより優先権・独占権を持っている、というのが非常に重要視される文化であるという。AちゃんとBちゃんが友だちという優先権を持っていた場合、Aちゃんの知人だがBちゃんとは非知人であるCちゃんが、Bちゃんと友だちになりたいとすると、たとえばAちゃんの紹介を受ける、とか、AちゃんのホームグラウンドでBちゃんの目にとまりうるかたちでAちゃんと知り合いであることを示し、Bちゃんから言い出される形で「友だち」認定してもらう、などといった何らかの手続きを経る必要があるようなのだ。面倒なように思えるが、それが「スジを通す」ということであり、これを怠るとルール違反、礼儀知らずということになるのだという。
そして、「はしご」とは、その種の「誰々と誰々が仁義関係にある」礼儀、手続きをすっ飛ばし、スジを通さずに「友達」を得ようとする行為と受け取られるのではないか、というのである。
……うーむ、なんか異文化の儀礼を研究する文化人類学者みたいな気分になってきました。私はこうした女の子文化を知らなかったし、小中学生の頃を思い返してみても、そういう文化を持っていた記憶はないのだけれど、ぱどでは男の子でも「はしご禁止」を標榜している人はけっこういるので、最近ではこの種の女の子文化が男の子の間にも広がっている、ということになりますね。これは、ホームページを持っている小中学生は、男の子よりも女の子の方がはるかに多い、という事情から女の子文化がデフォルトになっているからだろうか。とすると、10年後の若者のネット世界は、ケータイ文化、女の子文化が基本になっているのかもしれない。
一、二巻よりボリュームアップしていて豪華なラインナップ。『ペガーナの神々』と『時と神々』も全面新訳ですか。こうなると、今回は外されたジョーキンズ・シリーズの全訳も期待したいところですね。
好評の《ぼくらのベスト》シリーズの岩崎良美編。5枚のアルバムとファン投票によるカラオケ・ディスク入りでジャケット周りはすべて撮り下ろし。CD初期の音源を高音質で聴けるのも嬉しい。
岩崎良美といえば、80年代アイドルの中では、歌唱力といい楽曲の完成度といい群を抜いていた存在なのだった。ただし、当時のアイドルブームの中ではそれが正当に評価されたとはいえず、松田聖子や中森明菜の陰に隠れて、今ひとつ地味な存在だったのは確か。そんな岩崎良美の唯一の大ヒット曲といえばもちろん「タッチ」なのだけれど、このアニメ主題歌が岩崎良美の代表曲として扱われるのは、かつてのファンとしてはちょっと哀しいものがある。「タッチ」も確かに悪くない。悪くはないけれど、彼女の最良の曲にはほど遠いのである。「ごめんねDarling」とか「化粧なんて似合わない」とか、もっといい曲がいくらでもあるのに! アルバムにもいい曲がたくさんあるのに!
というわけで、これで岩崎良美の全アルバムが手に入ったので、MP3に落として通勤中に聴き倒します。
ぱどの小中学生のページを見ていると、「アイフレ」という言葉がよく出てくるのだけれど、これはもともとインラインフレーム(IFRAMEタグ)で自己紹介を書いていたことからきた言葉で、今ではインラインでもフレームでもなくても、別サイトに作った自己紹介ページを総称して「アイフレ」というらしい。これについては別に誤用だとかうるさく言うつもりはない。言葉の変化というものはそういうものでしょう。
その「アイフレ」には、自己紹介のほかに部屋での約束事が書いてあることが多い。たとえば、ある中学1年生女子による「アイフレ」はこんな感じである。
約束事はどこもだいたいどこも同じようなものである。モノくれたら一生愛するんですかあなたは、とか、チェンメ嫌なのにやられたらやり返すんですか、とか、言いたいことはいろいろあるけれど、まあそれはさておき、「はしご」を禁止する理由について「ダチとんな」と書いてあるのが注目されるところだろうか。「ダサ子」とは、読んで字のごとくであり、彼らの大きな価値基準のひとつであるが、彼らのダサさの基準が私にはわからない……。私の部屋に書き込みがないのは、もしかしたら「ダサい」と判断されたからだろうか。「なりきり」とは、アニメなどのキャラクターになりきって書くこと。「はしご禁止」については小中学生の意見はおおむね一致しているが、「なりきり」については、彼らの間でも意見が分かれるところらしい。「敬語」が「ウザイ」という理由で拒否されているのも興味深い。彼らのコミュニケーションでは「タメ口」が基本であり、社会的な序列のたぐいは拒否されているようだ。
また、「ブラリス」とはブラックリストのことであり、実際彼女は、自分の気に入らない人々のリストをハンドル、ぱどでの住所とともに公開している(たいがいは「1行カキコした」とかそういう理由である)。まあ、そこまでのことをしている人はそう多くはないが、「ぱど彼は○○です」と宣言したり、友だち(「ぱど友」、「マジ友」(=学校の友だち)を含む)のリストを公開したりしている人は少なくない。友だちの範囲やブラックリストを明示的に宣言せずにはいられない、というのは、やはり女の子文化からくる流れなのだろうか。いかにも子どもらしい無邪気な残酷さである。
という小学生による記載もあった。「あたしの部屋から人の部屋に行く」は「はしご禁止」のことだが、「住民センターで、名前を調べる」という行為がどうして禁止されているのかわからない。だいたい、管理者の側が便利な機能として搭載しているものを、あえて禁止するという態度はいかがなものか。「合言葉」は、彼らの間でわりと普及しているもので、日記とかプロフィールのあるサイトに書いてある合言葉を書かないと、無視されても文句は言えないものらしい。
H/K(ぱど用語で「話かわって」という意味である)、その「日記」についていえば、ぱどの日記システムは非常に貧弱なので、あまり活用されていないことが多い。日記を書きたい場合には、カフェスタや楽天など、個々の記事にコメントがつけられるような他の無料レンタルスペースが利用されていることが多いようだ。ぱどでは、あくまで掲示板による疑似チャット的なリアルタイムコミュニケーションが主体なのである。
彼らは、まず自分の掲示板に「INしたよ!!」と書き込む。これは「今、オンラインです」という意味で、そのあとはリアルタイムにそれぞれ相手の部屋の掲示板に書き込み合い、疑似チャットをするというわけだ。落ちるときには、やはり自分の掲示板に「寝ます」とか「落ちます」と書き込む。最初と最後のメッセージ以外は、すべて相手の掲示板に書き込むのが普通のようだ。
チャットの相手は、どうやら「マジ友」(学校の友だち)が多く、彼らは、ケータイメールの代替としてぱどを利用しているようだ。これはとても簡単な理由で、つまりケータイメールでは通信料がかかるが、掲示板によるチャットならいくら話しても無料だということだろう。
など、チャット相手を求める書き込みがずらりと並ぶことになる。彼らにとっては、掲示板の言葉も、またぱどの部屋自体も、ごく簡単に消したり引っ越したりできるものであり、恒久的に残るものという意識はあまりないように見える。
それから、住民センターでは、ぱど彼、ぱどカノ募集もよくある書き込みであり、その多くは、数多くの条件の羅列である。
いや、最近では募集する側が条件をつけるんですね。これはつまり経済学的に考えれば供給過剰ということなんですか。しかし、「名前がかっこいい」が条件なのがなんとも。
「はしご禁止」について、掲示板とsvnseedsさんの日記で、それは異文化ではない、という指摘が。なるほど、「コネが重視される世界」と考えれば、それは非ネット文化的ではあるけれど、しがらみにとらわれた従来の(ネット以前の)日本的な文化に近いものがあるのかも。
某所で、ある学会で運営していたWikiが、ぱど厨に乗っ取られてしまい、ヘンな画像だらけにされてしまったという話を耳にする。うーむ、アップローダの次に彼らのターゲットにされるのは、管理のしっかりしていないWikiですか。確かにWikiってのは性善説にのっとり、利用者の良識に任されたシステムなので、良識のない人間が入り込んでしまうとそういうことになってしまう。まあ、放置してる管理者も問題だと思うけど。
生半可な知識だけあって最低限のリテラシーすらないこういう「厨」たちが、「ぱどタウン」などの敷居の低い無料サービスによって、インターネットに大量増殖してるんでしょうね。やっぱり学校で早急にリテラシーを叩き込むしかないよなあ、これは。
「I am Karate-man!」。声を張り上げ、身振り手振りを加えて役を演じる。ニューヨークのバーで繰り広げられる「ムービーオケ」は、歌の代わりに映画のセリフを披露する、まさにカラオケの映画版だ。観客用に液晶プロジェクターを使い、音量を落として1〜5分程度のシーンを再生。ステージに上がった「主役」は、足元のモニターに流れる字幕を読む仕組みだ。演じたいシーンは、発案者で映画に精通した店員のアナスタシア・ファイト氏が探してくれる。上の階がビデオレンタル店になっており、8000本のライブラリーを生かせるのだ。ドリンクさえ頼めば、料金はかからない。
しかし、これはつまり、CGも使っていないしブルーバック合成ですらないものの、堺屋太一『平成三十年』に登場する「パソエン」(コンピューター・グラフィック利用の独り芝居)ではないか。ただし、堺屋ちゃんが書いたように、ジャイアンツのユニフォーム姿でピッチングをしたり、裃姿で黒田節を歌ったり、孫悟空を演じたり、「バットマンと魔女」(魔女?)を演じたりするのよりは、"movieoke"のように映画の一場面を演じる方がはるかに面白そうだ。ただ、日本じゃ宴会では流行りそうにないなあ。モンティ・パイソンとかウィッカーマンがウケる宴会ってのはあまりにも限られてそうだし。
あいかわらず羽美ちゃんは飛ばしまくっていてほっとする。ヘンに規制されてたらどうしようと思いました。
全然書き込みが増えない。いや、増えてはいるのだけれど、書き込むのは当日記の読者ばっかり。「セレネース」とか「あそこを見てきました」とか、そんな書き込みばかりなのだ。そんなあからさまに怪しい部屋には、小中学生は誰も書き込みやしません(結局本命の女子中学生からの書き込みはひとつもなかったよ)。
敗因のひとつは、私の作ったキャラが、どうやら小中学生たちの文化的コードに抵触していたらしいこと。「畳ベッドは渋すぎます」「顔文字を使ってるようですが、それじゃ女子中学生じゃなくただの厨房です」「泊亜蘭、などという今ひとつヅカっぽい名前はよくないのではないでしょうか」などなど、掲示板や他の日記での評判も最悪である。うーん確かにそうかも。
もうひとつの敗因は、ハンドルをこの日記で明かしてしまったことで、あのときは気づかなかったが、ぱどでは「住民検索」という機能を使うことにより、ハンドルから部屋を見つけ出すことができるのだ。どうりで読者ばかりが集まるわけだ。
そこで、思い切って今の部屋は引き払い、名前も変え、過去も捨てて新天地へと引っ越すことにした。みなさん、さようなら。探さないで下さい。
……しばらくして新しい部屋をのぞいてみたら、さっそく女の子らしい二人から「入居おめでとう」の書き込みが! まあ、時間も遅くなってしまったので今日返事を書くのはやめとくが、私に彼らの言葉遣いの模倣がうまくできるだろうか。それだけが気がかりである。
さて、ぱどについていろいろと調べているうちに、これから本格的に潜入しようとしている私にとって、大いに力になる文書を発見した。小中学生のネットコミュニティ(ぱどではないようだ)に単独で3ヶ月間潜入した、河口慧海のごとき偉大な先達の記録である。
……ひどい目にあってるよ。なんだか己の末路を見たような。いやいや(一抹の不安を振り払っている)。
このレポートでひとつ納得したのは、「コンテンツが充実していようがいるまいが、書き込まれる内容にあまり変化はない」というところ。確かに、ぱどタウンには「コンテンツ」という概念はないですね。コンテンツを充実させてみんなに読んでもらおうとか、そういう意識はないのだ(だいたいコンテンツを置く場所がない)。
気になったのは「素通り禁止」という言葉。ぱどタウンでは見たことのない禁令だけれども、いつものようにぐぐってみたら、けっこうな数のページがヒットした。どうやら、「素通り禁止」が当然であるという文化もあるらしい。これはつまり、「自分のサイトに来た者は、必ず掲示板に書き込まなければならない」という驚愕の掟(どうやら、部屋を見たら足跡が残って誰が来たかわかるしくみのようだ)。レポートを書いたP氏は、この掟を破ったためにブラックリストに入れられてしまったようだ。なんとも気の毒なことである。
幸か不幸か、ぱどタウンには足跡を記録するシステムはなかったので「素通り禁止」文化は発達しなかったが、もし足跡システムが導入されていたら、ぱどでもおそらく多くの小中学生が自分のスペースに「素通り禁止」を掲げていたのかもしれない。
「素通り禁止」というルールは、私にはどうにも理解に苦しむところがあるのだが、これを唱える人々というのは、つまり友だちや知り合い、自分に好意を持つ者しか自分のページを見に来ない、と固く信じているのだろう。不特定多数が見に来るものだと思っていたら、決してこんなことは言えないはずだ。
ぱどタウンの個人スペースがまさに「部屋」をイメージしているように、彼らにとってのホームページとは、すなわち個人の部屋のイメージなのかもしれない。確かに、部屋を訪ねてきたら挨拶するのが当然ではあるし、部屋の中には別に魅力的なコンテンツなどは揃えておく必要はない。あくまで居心地のよいコミュニケーションの場であればそれでいいわけだ。そしてほんとに仲のいい友だちには、部屋の鍵をあげる……。
まあ、「素通り禁止」についてはさすがに批判の方が多く、「素通り禁止」を掲げるサイトはかなり嫌われているようなので、このような理不尽な禁令はいずれ消え去る運命なのかもしれないが。
また、ぱど厨とは団塊三世?のessaさん同様、私にも彼らにはなんともいえない気持ち悪さを感じるのだけれども、その理由はessaさんと重なるようで微妙に異なる。私にとっては、インターネットとは通常の社会のしがらみから解き放たれる場であり、特にこの日記/ブログ界界隈の、興味のある記事にだけリンクする、というようなつかず離れずのさらりとした人間関係がけっこう気に入っている。それなのに、そのあとを担うべき彼ら小中学生たちが、どろどろとした従来の地縁血縁的な社会のルールのグロテスクなパロディみたいなものを、わざわざネットに持ち込んでいているように見えること。これが、私には気持ち悪い。せっかくネットはここまで成熟したのに、そりゃ先祖返りじゃないのか、と思ってしまうのである。
小中学生は、ネットをケータイメールのように使っているらしい、という話をこれまで書いてきたのだけれども、それで思い出したのが、最近、日記界(のごく一部)を騒がせた次の発言。
「一日のユニークアクセスがケータイのメモリ登録数以下の日記と、ケータイのメモリ登録件数が少ない人の日記は閉鎖してほしい」
その内容の是非はともかく、そもそもアクセス数とケータイのメモリ登録数を比べるという発想が私には思いもよらないものだったので、ケータイをほとんど使わない私は、これを読んで虚を突かれた気分になったのだけれども、この発言にしても、これまで述べてきたような、インターネットをケータイ的な個人対個人のコミュニケーションツールの延長としてとらえる、女子中学生的発想の延長だと考えれば理解できないこともない。
おそらく、この発言をした方はとても若い人なのだろう。そして、ケータイとインターネットは、この方にとっては並列に比較してもまったく違和感のないものなのだろう。そしてまた、ぱどで戯れる小中学生たちにとっても。当該日記にはあえてリンクしないが、たとえばこの発言者が日記で繰り広げている「ブラックリスト」といった発想もまた、ぱどにいる女子小中学生たちのそれにとても近しいものが感じられるのである。
いや、別に幼いとかダメだとか言っているわけではないのだ。リアルとネットの関係性のとらえ方が、ぱどの小中学生やこの発言者と、私との間ではどこか違うのだろうなあ、と思うだけの話である。
という意見を頂いたのだけれど、それは違うと思う。子どもたちがピンポンダッシュをやるのは、それがルールに反していて悪いことだから、スリルがあるからこそだろう。そうではなく、「ぱど厨」たちは、そもそもネットのルールというものを知らないのだ。だからこそ、早いうちからきちんとルールを教えるという対策は、けっこう有効なんじゃないだろうか。もちろんスリルを求めてルールを冒す子どもは必ず出るだろうけれど、それは厳重に罰してやればいいだけのこと。
しかし、実際のところ、ぱどタウンでは実住所とは関わりなくどこの街にも住むことができるわけで、地域情報とのリンクはそれほどうまく機能していないように思われる。
彼らがぱどで会話をしているのは、だいたい5時から8時くらいなのだけれども、社会人たる私はそんな時間に家にいないので、なかなかコンタクトできません。家に帰ったら帰ったで、締め切りすぎた原稿も書かなきゃいけないし、あと、今夜は妻が包丁を足に落として大出血してしまったし。血が。血が(精神科医は血に慣れていないのだ)。
さて、ぱど厨の話題になってから、なんだか近来稀に見るほどいろんなところからリンクを張られてます。こんなことは、ブ日記以来か?
というコメント。爆笑。ぱどに潜り込んで、ひどい目に遭って命からがら生還したときにでも使わせてもらおう(ひどい目に遭うと決まってるのか)。
この子たちは、ネットにあふれる様々な情報を、あたかも貨幣のようにやりとりする。第三者が作成したイラストやバナーを、「発見」し、「自分のもの」と認識し、その画像へのリンクを、他人に「譲渡」する。
お互い同士のリンクすら、私的所有物のように扱う。リンクのリンクを辿って友人を捜す行為は、「はしご禁止」として仁義に反する行為となる。
もう一つは、そうした情報の「所有」に強くこだわること。どんな情報であっても、「オープンな情報」という概念がなく、一個人が所有し、しかる後に、他人に使用許可を与える、という手続きにこだわる態度だ。
というのも的確な分析。ただ、この「所有」にこだわる点については、私は彼らの幼さ、コミュニケーションの未熟さによるものだと思うし、詳細は不明ながら「発達心理学的には割とよくある話」という意見もあるようだ。だとすると、これは彼らが成熟すれば解決する問題なのかも(そのときにはまた次の世代の「ぱど厨」が登場しているのだろうが)。
一時期、プロジェクト置き場が彼ら(彼女ら)に荒らされたことがありました。その理由を知りたかったので、ぱどタウンとカフェスタに登録して直接話をしてみました。要はページを飾るバナーやアイテムを置く場所が欲しかったみたいです(正規のアイテムを得るにはポイントが必要。なので、オリジナルを作るのを請け負ったり交換したりしている)。彼ら(彼女ら)が言うには「アップロードの方法で検索して見つかったので使った」「消したければ勝手に消せばいい」「対策していないのが悪い」「他の人もやっている」というものでした。
という経験談も、彼らの言い分が、実になんとも、ありがちすぎてイヤになってくる。ただ、こうした態度については、程度の違いこそあれ2ちゃんねらーのそれとそれほど変わるところがなく、ネット上の大人のふるまいが彼らの鏡となっているのかもしれない。
この間に生じているミスコミュニケーションは、パソコンをベースにITのリテラシを蓄積している社会とケータイを使いこなしている世代との間に起きるかも知れないジェネレーションギャップの前兆を表していると、いえるかもしれない。
という指摘は、「ぱど厨」世代と、我々との間にいずれ起きることを示唆しているような。ああ、私だってあんな打ちにくいケータイのキーなんかでメール打つ気にならないし、ケータイ用のサイトなんて見たいとも思いませんよ。
しかし、私のようなウェブ世代と、ケータイ世代とでは、近いうちにどちらが多数派になるかは、すでに目に見えているわけで、ケータイのコミュニケーション作法は、今後もウェブ上にどんどん持ち込まれることになるだろう。彼らが多数派になるにつれ、私のようなネット原住民は、旧人類気分をいやというほど味わわされるに違いない。
上のようなコメントの引用をしてきて気づいたのだけれど、ぱど厨の異質さの要因は、だいたいのところ、「幼さ」「大人の鏡」「ケータイ的な作法」の3つに分けられるようだ。あと、4番目として「無知」(パスワードを安易に教えたりするなど)もあるか。
A.H.Z.カー『誰でもない男の裁判』(晶文社)購入。巻末の作品リストで、カーが『「幸運の人」になる技術』なる自己啓発本の著者でもあり、しかもこの本が昨年翻訳されたばっかりだということを知る。全然知らなかったよ。この本についてはミステリ系サイトでも全然言及されてないようですね。
「もし神がいるのなら、おれを殺してみろ!」無神論者の作家が講演中に叫んだ次の瞬間、一発の銃弾がその胸を貫いた。逮捕された犯人はただ「声」に命じられたと繰り返すのみ。名無しの男に対する擁護運動が盛り上がるなか、現場に居合わせたミラード神父は事件の調査委員長にまつりあげられてしまう。しかし、全国から寄せられた手紙の一通に男が異様な表情をみせたとき、神父の胸に恐ろしい疑惑が芽生え始める……。 信仰と真実の相剋というテーマに真正面から取り組んだ異色中篇『誰でもない男の裁判』、殺人事件に巻き込まれた詩人探偵がウィリアム・ブレイクの詩から真相に到達する『虎よ! 虎よ!』、ふとしたはずみで娘の可愛がっていた猫を殺してしまった牧師の苦悩を描いて、殺人事件以上の衝撃をもたらす『黒い小猫』など、EQMMコンテスト入選作を中心に、エラリイ・クイーン、山口雅也らが絶賛する短篇ミステリの名手A・H・Z・カーの傑作全8篇を収録。日本オリジナル編集。
「幸運の人」になれるかどうかは心の持ちようひとつ。心の状態を変化させ、運を良くしてゆく方法を教える。アメリカで半世紀にわたって読み継がれ、「自己啓発書の宝石」との異名をとるロングセラーの邦訳。
「片方の眉を剃る」の意味がわからなくて、goo国語辞典や、三省堂国語辞典(第三版)で調べている人がいてちょっと笑った(失礼)。『蹴りたい田中』でも北野勇作がネタにしてたけれど、「空手バカ一代」なんて知らんだろうなあ、普通の若い人は。
「ぱど厨」とは、そもそも直リンクや著作権のある画像の無断使用など、ネットのルールを守らないぱどタウン住人のことであり、ぱどにいる小中学生一般を指す言葉ではない。そして直リンクなどのルール違反をしている小中学生は、当たり前のことながら、決してそれほど多いというわけではないのだ。だから、彼らを十把ひとからげに「ぱど厨」と呼ぶのは間違いである(また、いわゆる「ギャル文字」を使っている率もそれほど高くはない。カタカナを半角にする、「あいうえお」を「ぁぃぅぇぉ」と書く、「。」を「o」で代用するなどの言葉遣いはかなり普及しているが、こうしたジャーゴンのたぐいは2ちゃん用語と同じように、共同体には必ず発生するものだろう)。
ということで、今後は原義通り、ルールを守らない子どもたちの場合のみ「ぱど厨」と書くことにします。あと、最後にひとつだけ、「ぱど厨、元気でちゅう」という駄洒落を思いついたので使わせて下さい。
ネットを仮想現実だとする考え方は好きじゃないのだけども、物心つく前はネットの無かった我々は、ネットという物で構成されている世界が、普段接している社会とは(何かが)少し違っている、と無意識に思わざるを得ない。そこには、実体はよく分からないけども、そこにはある種のあこがれのような物があって、何かをネット上で行う、と言うことがそれだけで意味があったりすることもある。一方で、サイコドクターが困惑する若い世代にとっては、ネット社会にそこまでの特別な世界ではないのではないかな。つまり、電話や手紙と同様に、ネットはあくまで日常生活の延長線上なのではないか。従って、あくまでツールとしてネットを考えると、そこに非現実な何かや、日常から解離した理想社会を持ち込む方が不自然で、普段彼らが接している日常生活そのままを、そのままに近い形で導入する方が普通である気がする。
そうやって考えると、若い世代の方がむしろ、我々がどうやっても構えてしまうネットという世界を、自然体で使えてるんではないかと思える。言い換えれば、先祖返りと呼ぶよりは、むしろ発展系と考えた方が良いのではないかと思うんだけど、どうだろうか。
彼らが特殊なのではない。われわれのネットルールの方が特殊だったんだ。ΩΩΩ<な、なんだってー! という意見。確かにネットでブログだの日記だの書いている人間は全体からみれば少数派なのであり、今後はネットをなんでもない日常生活の延長と考える人が増えてくるのだろう。
ぱど厨に注目が集まってるが、結局は「日記/掲示板/チャット」の混合体でしかないのではないかな。ケータイMLのネット版か。上記した通り、大人でさえ継続した他者の目に耐えられる「コンテンツ」なんか難しいのに、小中学生にソレを期待し、他者を意識してないと驚愕するほうがどうかしてる。
また、ぱどタウンにたむろしてる「女の子文化」として、そのふるまいをジェンダーカテゴライズするむきがあるが、それは違うであろう。
風野センセは、「はしご」と「素通り禁止」を「驚愕の掟」とおおげさに表現なされているが、これも極めて旧来保守的な共同体の掟そのものを持ち込んだにすぎないであろう。
これもまた、彼らは特殊ではない、という意見。私としては、ぱどの子供たちのルールがが「女の子文化」なのは確かだと思う(その女の子文化の起源は、旧来の共同体の掟なのかもしれないが)。多くの人が指摘しているように、彼らの儀式的な人間関係とか所有のルールは別に目新しいものではなく、子供たちの間では昔からあるものでしょう。私がこれまで書いてきた一連の「ぱどの子供たち」話が、「最近の子供たち=異質で何を考えているかわからない」という最近の少年犯罪報道によくある印象を増幅させてしまったのなら、私にも責任はあると思うのだけれど、
オフラインでは大人の目にとまらなかった子供社会の現実が、ネット上に展開されることで大人に見えてしまった
ために異様に映っているだけ、という可能性はつねに考えに入れておかなければならないだろう。子供なんて、昔からこんなもんだったんでしょう。単に見えてなかっただけで。
で、知らない人から「これ面白いでしょー」ってかんじで色んな画像とかアニメとかが送られてきてるんですよ。それを彼女は同じノリで私に見せてくれたんですが、そのほとんどは私は一度インターネット上で見たことのあるものだった。
インターネット上で見るときはまぁ当然、リンクがあって、ネタ元のサイトに行って見てるわけですよ。でも携帯だとネタ元はわかんない。無邪気に誰かがインターネットで見た面白いと思った画像なんかを携帯メールで友達に転送、それをまた転送転送……でぐるぐるまわってるわけです。
なるほど、彼らの直リンクやパクりに対する感覚ってのはこのへんからきてるのかな、と初めて腑に落ちた気がしました。
オンラインRPGのレベル上げのため、人恋しくなっても人前に出られないように眉毛を片方剃って、「わはははは、馬鹿よ、まさにネット馬鹿よ!」と家にこもる、というのを思いつきました。
きのうの「片方の眉を剃る」の話で、「『蹴りたい背中』でも北野勇作がネタにしてた」と誤記していたことに気づいた。不思議に誰にも指摘されませんでしたね。
ウィリアム・ゴールドマン『殺しの接吻』(ハヤカワ・ミステリ)購入。『プリンセス・ブライド』とか『マラソンマン』とか、昔読んだこの人の作品はどれもおもしろかったので。
ところで、ポケミスの表紙はたいがい勝呂忠氏の抽象画である。はるか昔からポケミスといえば勝呂忠というイメージがあるのだけれど(もちろん違う人が書いているのもあるが)、実際1950年代から、すでに50年近くにわたってポケミスの表紙を飾っている。年齢はというと、もう80歳近い。絵画の世界のことはよく知らないけれど、抽象画の老大家なんだろうか。これだけ多くのポケミスの表紙を手がけてきたということは、ものすごい多作家ということだろうか。ただ、昔の画風に比べると、年齢のせいか、最近のものはちょっと雑になってきているようなのが残念。
ともあれ、ポケミスの表紙のすばらしいところは、なんといっても内容とまったく関係がないところ(なかにはそうでないものもあるが)。ラノベのアニメ調表紙絵の対極に位置していて、実にストイックで高踏的。まあ、これが一見さんお断りといった敷居の高さの原因でもあるのだけれど。普通の人は買いませんよ、こんな表紙の本は。同じ抽象画でも、文庫版のクイーンの装丁を手がけた北園克衛のいかにもクイーンらしいスマートさと違って、油絵ならではの泥臭さがあるのも、雑多な作品を収めるポケミスらしいところ。
知らない人も多いと思うのだけれど、世界有数のパズルコレクターで、パズル作家でもある方。『パズル学新論』や『究極のパズル』は、中高生の頃に何度も読み返したもの。DUALOCKの解き方には意表を突かれたし、5円玉の穴に木の矢が刺さっている不思議物体も買ったのだけれど、最近ようやくここでようやく作り方を知った次第。しかし、コーラのビンに穴をあけてそこに固そうな木の矢を通していた写真もあったな。これは同じ方法では作れそうにないのだけれど、どうやって作ったんだろうか。

 

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