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忌憚とは?/ セントラルファイナンス

[ 594] 慣用句辞典 きさ〜きの
[引用サイト]  http://www.geocities.jp/tomomi965/ko-jien02/ka08.html

・樹静かならんと欲すれども風止まず(きしずかならんとほっすれどもかぜやまず) 木が静かになろうと思っても風が止まないのでどうにもならないという意味で、思うようにならないことの喩え。やっと親孝行をしようと思う時には親は死んでいるということ。 類:●子養わんと欲すれど親待たず●風樹の嘆(たん) 出典:「韓詩外伝−巻九」「樹欲静而風不止、子欲養而親不待也」
・箕子の憂い(きしのうれい) 象牙の箸のような些細なことから、天下の大事を予見して憂えること。賢い人は、小さな動向を見て大局を見ることができるものだということ。 故事:「韓非子−喩老」「紂為象箸而箕子怖、以為象箸必不加於土[金+刑]、必将犀玉之杯」 紂王(ちゅうおう)が象牙の箸を使い始めたときに「象牙の箸を使い出せば、土器をやめて犀の角や玉で作るようになる。粗末な豆ではなく珍獣の肉を食べるようになる。粗末な仕事着や茅葺の家には住めなくなり、煌(きら)びやかな衣を着て立派な御殿に住みたがる」と憂いた。 参考:酒池肉林
・起承転結(きしょうてんけつ) ものごとの構想や順序のこと。ものごとの作法のこと。 類:●起承転合 ★漢詩の構成法の一つ。絶句では、第一句が起、第二句が承、第三句が転、第四句が結。また、律詩では、第一・第二両句が起、第三・第四両句が承、第五・第六両句が転、第七・第八両句が結。起は詩意を起こし、承は起句を承(う)けつぎ、転は一転して別境を開き、結は一編全体の意を結合する。連歌、俳諧にもこの構成法が適用され、さらに散文の構成にもこれが応用される<国語大辞典(小)>
・岐に哭して練に泣く(きにこくしてれんになく) 分かれ道は本人の意思で南にも北にも行ける、白い糸は好みによって黄色にも黒にも染められる。人が習慣によって善人にも悪人にもなれるということを嘆くこと。また、善悪の区別が明らかでないことを嘆くこと。 類:●亡羊の嘆●墨子糸に泣く 出典:「淮南子−説林訓」「楊子見岐路而哭之、〈略〉墨子見練糸而泣之」
・気に病む(きにやむ)[=持つ] 心に掛けて色々心配すること。苦労に思うこと。 用例:常磐津・三世相錦繍文章−序「十九や二十は、箸の転んだ事も気に病むものだが」 用例の出典:三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう) 歌舞伎脚本。常磐津。世話物。6段。三世桜田治助。安政4年(1857)江戸中村座初演。大坂南新屋敷の遊女お園と大工の六三郎の心中事件を題材とする。お園が兄長庵を殺して六三郎と心中、地獄極楽をめぐり歩く五段までを夢とし、長庵から宝の色紙を取り返し、お園と六三郎は結ばれる。全段常磐津なのが珍しい。通称「お園六三(ろくさ)」。 参考:常磐津節(ときわずぶし) 浄瑠璃の一流派。宮古路文字大夫が豊後節の分派として、延享4年(1747)に始めた曲調。彼が常磐津文字太夫と名乗ったところからの名称。曲調は、半ば唄い半ば語るもので、新内のように情緒本位ではなく、劇的であるために、歌舞伎の所作事と深く結び付いて今日に至る。常磐津。
・昨日の襤褸今日の錦(きのうのつづれきょうのにしき) 昨日までは貧しくみすぼらしかった者が、今日は立身出世して富貴の身となり立派な装(よそお)いをしているということ。世の中の移り変わりが激しいことの喩え。
・昨日の淵は今日の瀬(きのうのふちはきょうのせ) 昨日まで淵であった所でも、一度流れが変わると今日は瀬になってしまうことがある。人生が転変無常であることについて言う。 ★「古今和歌集−雑・下」にある歌「世の中は何か常なる飛鳥川きのふの淵ぞけふは瀬になる−よみ人しらず」に基づく。
・木登りは木で果てる(きのぼりはきではてる) 木登り上手の者は、木から落ちたりなどして死ぬことが多いということ。得意の技能のある者は却(かえ)ってその技能のために我が身を滅ぼすものであるという喩え。 類:●川立ちは川で果てる●泳ぎ上手は川で死ぬ●好く道より破る

 

[ 595] 「忌憚ないご意見をお寄せ下さい」に気をつけろっ!
[引用サイト]  http://ekken.blog1.fc2.com/blog-entry-108.html

僕は創作系ブログ(自作の小説とか詩、イラストをメインコンテンツにした所)を見るのが好きなのですが、こうしたブログにコメントを残すことがほとんどありません。
学生時代に短編小説を主体とする創作系サークルに所属し、あまり代り映えのしないショートショートを幾つか書いていたので、他人に読んで貰って批評をされる喜びは理解できます。
褒められれば素直に嬉しいし、「ここをこうすれば……」と指摘されれば、次の回に頑張ろうと思ったものです。
ところがネット上の創作系ブロガーにはそう考える人は少ないようで、自分で「忌憚ないご意見をお寄せ下さい」と言いつつ、実際に「忌憚ない意見」が寄せられると、途端に豹変し、指摘した点について、その指摘がいかに的外れであるかを全力で語り始める始末。
もしかしたらそんな所は極少数で、たまたま僕が経験したのが特殊な例だったのかもしれませんが、以降「物語に対する好みの問題」もある事から「忌憚ないご意見をお寄せ下さい」を真にうける事は無くなりました。
「忌憚の無いご意見を」は転居のお知らせの葉書に「お近くにおいでの際は是非お立ち寄りくださいませ」と書くようなものではないでせうか。
いろいろな例とその感想を考えてみました。「忌憚ないご意見をお寄せ下さい」 なんだかカッコ付けっぽい。どうも信用できない。「ご感想・ご批判を歓迎しますが、どうかお手柔らかに」 見るからに軟弱だけど正直そう。「善意の批評は歓迎しますが、誹謗中傷は禁止です」 ふーん。どうやらお追従だけ聞きたいらしい。「匿名の卑怯者禁止。批判は実名に限ります」 小倉先生、お疲れ様です。
なんにしてもそうなんですけど、「ああ、この人はこう思ってるんだなあ」という感覚で、他人の意見を処理できない人って多いですね。特に創作物の価値って、「批判者を打ち負かす事によって」上がる物ではないと思うんですよ。そこらへん、勘違いしてるのでしょうかね。
「批判は実名」というルールは、小倉さんではなくて苫米地さんかと思いますが。小倉さんは黒木ルールじゃなかったっけ?あれ?勘違いかな?
はじめまして。とても共感したので、トラックバックさせて頂きました。ここで、「何言ってんだオマエ!全然違うだろ!」って書いて論争が始まったらとても面白いと思ったんですが・・・やめときました。。ではでは。
これは個人的な意見ですが……と防御線を張りつつ(^^ゞ作家たるものプロ・アマ問わず、「忌憚ないご意見をお寄せ下さい」などと言ってはいけない気がします。作品を発表する前だったらプロの意見は重要だと思います。これは作家が書く上での知識として必要なもの。たとえば、病院を舞台にしている作品なら医療関係者に細かい描写についてアドバイスをもらったほうがいいでしょう。けど、いったん発表したならば、作家自身の譲れない部分があってしかるべきで、変に意見なんて求めてはいけないと思う。普通ありえない描写が出てきたとしても「それはそういう世界の話なのだ」と言い切るくらいなじゃないと。私だったら好意的な感想はありがたく受け取って、批判的な感想はスルーしますね。作家としてのプライドにかけて「忌憚ないご意見をお寄せ下さい」なんて絶対言わない。
基本的に、ブログのコメント欄でオープンに意見を募集するのって、創作ブログ、批判ブログを問わず、エントリに書いた内容が世間から肯定的に承認してもらえるかどうかとういう不安を解消したいという意図があるのではないでしょうか。なので、自分が意図していない否定的なコメントが来ると、そのコメントの内容が>いかに的外れであるかを全力で語り始めるという事態になるのだと思います。批判ブログの場合、否定的なコメントを個人の価値観の違いという形で処理すると自身が展開した批判主張の普遍性を自ら否定することになって辛いわけですが、創作ブログでは、否定コメントを価値観の違いとして処理してもいいはずです。でもそうはならないのは、的を射た批判的コメントが存在しないという状況を少なくとも自分が見渡せる範囲で確保しなければ、不安が解消されないからなのかもしれません。で、批判コメントをする側には、そう簡単に世間からの肯定的な認証を与えてなるものかという意図もあるのかもしれません。
皆様の意見に共感しました。
自己申告の上司からの返信に「いつも忌憚のないご意見をありがとうございます」とあり、何か違う・・・?本当のところは生意気なって思ってる訳ねと感じました(>。<)忌憚の意味は「言うこと遠慮すること」なんで忌憚のないとくれば、厚かましく言うってことかしら使い方ですね

 

[ 596] 大学教員の日常・非日常:忌憚ない意見
[引用サイト]  http://blog.livedoor.jp/yahata127/archives/51162922.html

クビにされそうだった大学教員です。現役大学生とか、これから大学生になる人とか、大学生の親になる人向けのつもりで。
事務がそんなことを決めていいのかよ?とか思いつつも、教員もあまり見る気がないらしく、異論反論はなかったもよう。授業改善する気のある人は、最後の評価よりも先に自分でアンケートをとったりしていますし、改善する気の無い人は、別に公開されようともされなくてもまったく問題ないのです。せいぜい、ちょっと気になるという層の人が、見れなくてちょっと残念というぐらいで、騒ぐこともありません。
ちなみに、○○には教科名講義名ではなく、華麗なまでに敬称略で個人名が入っています。全人格否定する罵倒です。荒れた2chのような書き込みは、公開されても不信感を煽るだけのような気もします。煽りに弱い教員が多いので、事務が公開しないという理由もわからなくはないです。情けないですが。
他にも「子供を産んでない人が、助産師の話をされても意味不明」なんていう個人攻撃もあり、こいつはちょっとひどいんじゃないかと。大体、子供を5人も産んでいるあのおばちゃんの講義だってたいしたもんじゃ……ゲフンゲフン。えっと、経験はないよりあった方がいいですが、経験がないから講義ができないってのは、かなり暴言じゃないかと。事情があって産めなかったら、この意見を書いた学生はどうするつもりなんかね。事情ってのは「プライドが高くて結婚できない」とか、そういうのじゃなくてね。
忌憚ない意見だけだと、寂しい気分で終わってしまうので、その反対も載せておこうというエントリです。
うちでも学部単位でアンケートとってますが私は意義を感じていません。情報収集のために独自にアンケートとってます。アンケートで使われるトリックやイカサマの説明が一部の学生に好評。
学部単位のアンケートの自由記入欄で「○○は気違いだ」「××のせいでこの科目が嫌いになった」などと書かれたこともあります。単位に関して厳しい方でありレポートのコピーチェックやカンニングの発見もやっているので悪口は予想しているけど、このような回答は本当に堪える。だって、○○も××も僕の名前じゃないんだもの。
忌憚どころか配慮無いというか、心無いというか……。でも、案外、生真面目だけど成績が芳しくない生徒の不安の表れだったりもするんでしょうかね?
いや、もしかしたら、ふだんから勇ましい連中が、匿名で書いてるだけかもしれませんので、よくわからんです。

 

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