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[ 422] 闇黒日記
[引用サイト]  http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html

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うちの自作PC無名戰士一號(改)くんが朝の一番忙しい時に電源を落さうとしてもなぜか三分くらゐ考へ込む癖がついてゐたので導入したらすつきり。
基本的に宗教には理性的な側面と感情的な側面とがある。人間には理性的な側面と感情的な側面とがあるからだ。そして、或宗教とは、人間の或集團が持つ共通の價値觀の形式である。民族宗教と民族或は文明とは、密接に結合してゐて、分かつ事が出來ない。キリスト教とキリスト教文明とは一體のものだ。そのキリスト教文明においてのみ、科學が發達した、と云ふ事は強調されねばならない。中世、アラビア社會で科學その他の知識が受繼がれ生延びた事は事實だが、アラブは停滯してしまつた。キリスト教社會も、キリスト教による支配の下、停滯を生じたのだが、しかし、他の社會と違つて、自身の力で再生を實現してゐる。それも、興味深い事に、社會の停滯を生じたキリスト教自身の力によつて、である。キリスト教自身の改革と、ほぼ同時に、反キリスト教的な革新とが生じ、中世が近世に移行してゐる。宗教改革とルネサンスだ。茲で、キリスト教文明は、感情面でキリスト教と云ふ表現を持ち、理性面で科學と云ふ表現を持つた――さう言ふと、思ひ附きの域を出ない出たら目だ、と非難されるのだけれども、何うだらうか。
文明と宗教の結び附きは、トインビーが言つてゐるし、ドーソンも言つてゐる。イギリス邊の歴史學は――文明論と特に區別もしないで構はないと連中、思つてゐるだらうし、俺もそれでいいと思ふのだが――日本では何うも人氣がないらしいし、特にドイツ邊の小難しい学問をやつてゐる連中からは殆ど憎惡の對象にすらなつてゐるのでないか。
ドーソンは、西歐に於てキリスト教特にカトリックの果した役割を高く評價してゐたし、問題を抱へた現代社會の再生にもカトリックは貢献し得ると考へてゐたのだが、最近のイギリス人は何うなんだらうか。
殊に「宗教」と言ふと、最う人によつてイメジやら定義やらがてんでばらばらで、そのまゝ對話をしようとしても、異る概念についてめいめいが勝手に思ひ思ひの事を一方的に喋り散らす結果になり兼ねない。
なんかまた專門家の嚴密病が。ただ單に英語とかフランス語とかをまとめて呼ぶ時、記號的に「歐米語」と言つてゐるだけで、「歐米の全ての人間が共通して使つてゐる言語略して歐米語」とかそんな話ではないのに。「日本語と言ふな、アイヌにも言葉があるだろ」とかそんな揚げ足取りと同じだと思ふ。
今の時代、最早言語の名稱なんて土地の名前とかと必然的に結合したものではなく記號としてしかあり得ないんだから、「不正確」でも別に氣にする必要ないだろ。
石井勲『1年生でも新聞が読める 革命的漢字教育法』(講談社)を百圓でひろつた。石井先生が、一年生から更に遡つて(?)就學以前の子供に漢字を教へ始める前の本(たしか)。違つた。福田恆存さんの推薦文が載つてゐる。
日本人は、概して保守的な民族なのですが、「ことば」の問題となると、奇妙に進歩的になる。おそらく、だれもが、日本語に対して、多かれ少なかれ劣等感を抱いてゐるからでせう。そのため、「大衆のため」「子どものため」と称しては、不合理な表記法改革をする。何のことはない、「子ども」「大衆」といふかくれみのをつけた、劣等感の育成にすぎません。こんなへっぴり腰の教育観で、子どもを教育してゐるのが現状です。最近、水道方式とか、プログラム学習とか、学習の能率化が、世の母親の間に大はやりといふのも、こんなことが原因なのでせう。でも、私なら、さういふ学習方法以前の問題として、学習の基本となる国語教育に、効果が証明ずみの石井さんの漢字学習法をお勧めします。はるかによい成績がをさめられるでせう。幸ひ、本書には、個々の漢字の教へ方まで、親切に書かれてをります。母親の最もよい手引となることは疑ひありません。(歴史的かなづかひによる)
ところで、昔、「鳥のやうな抽象的な概念を表はす漢字よりも、鳩や鶏のやうな具體的な物を示す漢字の方が幼兒には理解し易い」と言つたら、變な曲解をして呉れた擧句、俺の事をきちがひ呼ばはりして呉れた人がYahoo!掲示板にゐたなーとなつかしく思ひ出した。なんか逆鱗に觸れたらしく、未だに俺に粘着して呉れてゐるらしい。
石井式の漢字教育と言つても、日常誰も絶對に使はない「かながき」の本を子供に與へるのをやめて、普通の漢字假名交じりの書き方を使はせる、と云ふだけの事に過ぎない。單に「漢字を使ふ習慣をつけさせる」と云ふだけの話で、議論をする必要もない常識的な方法なのだが、なぜか「それが正しい事を理窟で證明しろ」と人に強要して困らせる人がゐる。
例のええと何だつけ變なをぢさんの「いろはもどき歌」とか、文語の苑とかは、方法論として「考へられる」に過ぎず、效能なんて事を全然考へてゐない思ひ附きのものでしかないが、石井式の漢字教育法は人間の心理に即したものだから「あり得る」ものであるのみならず「實施する價値のある」方法だ。
と言ふか「何年生の子供にはこの範圍の漢字しか教へては行けない。よつて子供にもその範圍外の漢字は絶對に使はせない」とか、どんな官僚主義だよ。役人が役人の世界の中で使ふものを制限するのは勝手だが、役人は官廳から出て來るなよ。
いままで、むずかしい漢字というと、字画の多い、字形の複雑な漢字がそうだと考えられていました。したがって、やさしい漢字というのは、字画の少ない、かんたんな字形の漢字ということになっていました。しかし、これは、すでに申しあげましたように、だれでもそう考えやすいことではありますが、まったくちがっています。
子どもの生活に、もっとも縁の深いもの、子どものもっとも興味や関心をもつものを表わした漢字が、字画に関係なくよく覚えます。しかも、この点に同じ条件であるなら、字形の複雑なもののほうが、覚えやすいようにさえ思われます。
自分は今まで人生のどれだけを生きて來てしまつたのだらうとか、死ぬまでにどれだけ時間が殘つてゐるんだらうとか、人生が終つたら何うなるんだらうとか考へる時、人はちよつとだけ宗教的になつてゐるやうに思ふ。
雨の所爲でカウボーイビバップ録畫失敗。なんで他の局だとちやんと映つてゐるのにNHKのBS2だけブロックノイズまみれになるんだよ。
Photoshop。二枚の畫像の色味を合せようとして手作業でいろいろ頑張つたけれども巧く行かなくてぶち切れ。ふと思ひ附いて作業を最初まで戻してから自動レベル補正をかけたらぴつたり。
スパムメールよけでいろいろNGワード登録してあるんだけれども、そろそろ「SEO」がタイトルに入つたメールもはじいた方がいいのかな。
批評家の力量は、批評の対象となっている言説を述べた人と同等 (あるいは、それ以上) でなければならない。
その前提に立って、ぬきさしならぬ状態のなかで、寸鉄のように撃ち抜く アフォリズム を提示するのが第一級の批評家であって、第一級の批評家が綴った短い批評文は、思いつきの戯れ言とは雲泥の相違になる。
それを「安易に行なつてゐる」と云ふのが「輕蔑」の理由となる訣だが、一方で、一見して數撃ちや當る式のやり方を採る事もまた一つの態度であるし、それに讀み手を附合はせる事もまた一種の方法論として「あり得る」。
福田恆存が、ワイルドのアフォリズムを譯し、安吾を褒めたのには、その見識・知識よりも、生き方・行き方への同感があつた事が、理由として「ある」。「二流」である事も一種の「あり方」として福田氏は認めてゐたし、さう云ふ人を福田氏は一面で積極的に認めようとしてゐた。
日本人は眞面目過ぎる。人を襃めるにしても貶すにしても、餘りに糞眞面目で、何かを見失つてしまつてゐる人が多い。
科學は別にそれ自體として宗教でも何でもないが、キリスト教社會において神の存在證明から非存在證明へと進み唯物的な發想へと至つたものはキリスト教の敵と看做されるのであり、その時點で一種の宗教と化してゐるとは言へる。
キリスト教を淺薄皮相のレヴェルで(と言ふより世俗的な形で)受容れたに過ぎない日本人にとつて、キリスト教が自分逹のものでないのと同樣、科學を宗教と看做す發想もまた自分逹のものではあり得ない。科學それ自體を信奉する態度があつても、日本では狂信であり、信仰ではない。

 

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